本を読むのが嫌い

 前回の文章を読み返してみたんですが、文体のせいかめちゃくちゃ意識高そうでビビっちゃいましてね。意識レベルとしてはマリアナ海溝よりちょっと高いくらいを目指してるんで、とりあえず文体を崩す感じで意識を低めていこうと思います。

 さて、表題の件なんですが、ここでいう「本」っていうのは、いわゆる半生を綴った自伝みたいな、そういう奴ですね。他人の思想とか人生訓とか、そういうものが書いてあるやつ。まぁ、このnoteもそういうものの一例なわけですが。
 そういう本を読むのが嫌いなのは何故かというと、別に読んでて鼻につくとかムカつくから、というわけではなくて。私には「自分の人生における発見は、自分の力だけで成し遂げたい」という密かな願望がありまして、他人の思想を頭にいれることは、その願望の妨げになるからなんですね。これはいうなれば「対戦型カードゲームで、自分が構築したデッキで勝ちたい」の人生版みたいなもんでして、対戦型カードゲームをやってる人にとっては今の例えでどれだけ非効率かというのがおわかりになるかと思います。

 でも、ですね。そもそも、何のために他人の思想や人生訓を学ぶか考えたことってあります? もちろん、人生をより良くするためとか、その思想・教訓を下地にさらにワンステップ高い考えを持つためとか、色々あるとは思うんですよ。でも、正直いって別に今の人生でそれほど不満があるわけでもないですし、思想や教訓を下地に~といっても、専門でやってるわけでもないなら、思想の”最先端”には追いつけないわけじゃないですか。なら、「自分が自分の人生の中でさまざまな発見をする」という喜びや充実感の方が(たとえ、それが周囲から見れば、いわゆる「車輪の再発明」であったとしても)、人生にとってプラスだと思いませんか? 知識を得ることが幸福度の低下につながるのと同じ理屈で、世界を狭くしたほうが、普通に生きる分には「いい気」になれると思うんですよ。

 さて、こうした狭い世界での「発見」なんですが、いざ気が向いて調べてみたりすると、私が独自に辿り着いたはずの「発見」は、遥か昔に誰かが発見して法則として名前をつけてたり、諺として残ってたりするわけでね。それをして「俺が古代ローマに生まれてたら、大哲人になれたのになぁ」なんて嘯いたりするわけですが、実際はそうじゃない。何故、学んでもいない「思想」に、私みたいな学がない人間が辿り着けるのか? それは、それほど広くに「教育」が行き届いているからなんでしょうね。古代から脈々と受け継がれてきた優れた思想が、教育として多くの人の根底に刷り込まれ。そうして刷り込まれた思想が、何気ない会話や仕草、行動、生み出される作品、ひいては社会の枠組みに反映され、その断片を我々は受け取っているのでしょう。
 そう考えた時、やはり、我々は現代を生きる人間として、地層のように積み重ねられた優れた思想の上に立っているわけですから、過去のどんな大思想家よりも俺の方が優れているという自信を持って生きたいですね。

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