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「わたしのおかあさんなのにずるい」

母の還暦祝いで帰省していた。

単純にそういう年頃になったのか、これまで向き合ってきたことが身を結んでいるのか、それとも自分も子育てを現在進行でしているからなのかはわからない。

けれど、いままで腑に落ちなかったこと、漠然とあたりをつけていたけれど真に納得できていなかった自分についての疑問(なんでこういう反応しちゃうんだろう、とかなんでこういう考え方や行動のクセがあるんさろう、ということ)が「あぁ、そういうことか」と自然と思える瞬間が何度かあった。

わたしは姉と2歳差の姉妹で、姉にはいま2歳半になる息子がいる。わたしにとっては可愛い可愛い甥っ子。この子が生まれたことで、自分も子どもを産もうと思えたほどの存在なのだが、今回の帰省で自分でも「おぉ、そうきたか...」と若干ひくような感情が彼に対して湧いてきた。

「わたしのおかあさんなのに、ずるい」

おばあちゃん大好きな甥っ子は、母がいればもうずーっと母にくっついている。膝の上から離れず、何をするにしても母にやってもらいたがる(ごはんとかね)。

その様子をいま現在の大人のわたしは微笑ましく見ているのだけど、一方で心のどこかでモヤモヤしていることにも気づいた。

このモヤモヤは何だろう?とじーっと見つめていると、その感情に言葉がくっついた。そしてハッキリと自覚した。

「わたしのおかあさんなのに、ずるい!!」

わたしのなかにまだ残っている子どもの部分が、母を独占する甥っ子に対して嫉妬していたのだ。気づいたときは、さすがに気まずかった(笑)。甥っ子に嫉妬する叔母って!

それだけではない、こうも思っていたのだ。

「何もしてないのに褒められてずるい!」

うちの両親はあまり子どもをまめに褒めるようなタイプではなく、誰かに子どもを褒められても子どもの前でガンガン謙遜するような昔ながらの親だった。彼らもそこを反省(?)して孫たちには何かと褒めるようにしているのだと言っていた(※)。

「すごいね」「かわいいね」「えらいね」と何もしていないのに褒められる甥っ子に対して、なおもわたしのなかの子どもの部分はずるいずるいと怒っていた。
「生まれてきてくれてありがとう」と言っているところを見たときにはちょっと泣いてしまった(わたしのなかの子どもの部分が)。そうか、わたしも何もしてなくてもあんなふうに存在全部を認めてもらいたかったんだね。

不思議なことに、自分の娘が同じように母に褒められていても何とも思わないのだ。無意識のうちに娘に自分を投影しているのかな。

世の中の長男長女たちの多くが2-3歳頃に体験するであろう感情を、わたしは37歳にして初体験。不思議なような、恥ずかしいような、でも小さなわたしの声が聞けてよかった、ということにしておこう。

※褒めて育てる、はじつはもうその弊害もわかってきています。例えばテストでいい点数をとって「頭がいいね!」と褒められた子たちは「いい点数をとること、頭がいいと言われること」を死守しようとするので、次の機会に簡単な問題を選んでしまう実験結果がでているのです。逆に「がんばったね、ベストを尽くしたね」とプロセスを認められた子たちは難しい問題を選んだとのこと。

できること、結果が出そうなことを選んでチャレンジしなくなることの意味は大きいです。


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