カフェ

世界はごはんで成り立っている

バンコクの大学構内にある、大きな大きな野外食堂。現地の学生の真似をして、なんとか注文して食べた、魚のつみれが入ったタイ風ラーメン。

ニューヨークのアッパーウェストサイドにある、"朝食の女王"サラベスで食べた、つやつやに光ったエッグベネディクト。

ポートランドのオーガニックレストランで食べた、新鮮な野菜がボウルいっぱいにはみ出した色とりどりのサラダ。

ローマ郊外の山のなかのレストランで食べた、やけにしょっぱいアマトリチャーナ。

ミラノの信じられないくらいに安くておいしくておなかいっぱいになるレストランの、ピッツァマルゲリータ。

パリで食べた、ベトナム料理店の熱々のフォー。

みんな、どれくらい美味しかったかは忘れてしまった。
けれど、そのとき一緒にテーブルを囲んだひとの笑顔と交わした言葉の断片はいまだによく覚えている。

◆◆◆

20代半ばのことだ。仕事は上手くいかない、彼とはすれ違いばかり、この状況がヤバいことは分かっていて、でも誰に何を相談すればいいのかもわからなくて、毎日死んだように終電で帰っていた時期がある。

毎晩、最寄り駅から家のあいだにあるコンビニに立寄り、ピカピカに包装された商品―それはおにぎりだったり、麺類だったりした―が並んだ棚をぼーっと見つめて、お腹は空いているのに食べたいと思うものが何も無くて、もうその場に座り込んでわんわん泣きたかった。

わたしがそのとき欲しかったのは、食べ物じゃなくて食卓だった。贅沢なものじゃなくていい、湯気のたった温かいものを、大切な誰かと一緒にしみじみと食べたかった。

政治、経済、宗教、信条の違い、格差。

現代の社会や世界は、もう複雑すぎてそもそも何が間違っているのかわたしにはわからない。

けれど、その国のひとたちの大半が、愛するひとと食卓を囲めないとしたら、それはやっぱりすごくおかしい。どれだけ貧しくても、どれだけ忙しくても、それくらいのしあわせはこの時代に生きるみんなが、もう無条件で担保されたっていいものだと思う。

しあわせのかたちは、言うまでもなく人それぞれだが、わたしにとってそれはごはんのかたちをしている。

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