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お金観とは人生観そのものかもしれないね

今日もまた子どもと一緒に19時くらいに眠ってしまって、ゴソゴソ起き出してこれを書いています。

お金の話はねー、好きだよねー、もう。笑 何時間してても飽きないくらいなんだけど、それって結局「どうやったらお金が儲かるか」とかそういう話じゃなくて(いや、それも好奇心的には好き。でも実際やることにはあんまり興味がない。笑)、「なぜお金とはこうなのか」「人によってお金観がこうも違うのはなぜなのか」みたいなのが大好きで、つまりこれも好奇心の一種なのだろうなと思います。

わたしもかおりちゃんとはまた違ったかたちでお金にはずっとマイナスの感情が紐づけられていたんだよ。恥とか罪悪感とか...。その辺りのことは6年前に腰を据えて取り組んで書き残したことがあったので、よかったら読んでみてくれると嬉しいです。長文だから気をつけて!笑

さてさて。かおりちゃんが言ってた、「外国人から1銭でも多く巻き上げてやろう」感、なんだろう、本当にツーリスト的にその場にいたらある程度は「仕方ないなぁ」と思いながら(とはいえありえない程ふっかけられてたら憤慨するし払わないけど)わたしは払っちゃう。でも、たぶんその街で暮らしてたりその街がとりわけ好きだったりしたら...やっぱり複雑に感じるんだよね。自分にされたら壁を作られている気がして悲しいし、仮に端から見ているだけでも、なんかそこに自分の理想を裏切られている気がして悲しくなる。

ただ、最近はあんまり「値段」そのものについては考えないようにしてるんだ。考えない、というか、いやむしろ考えるというか...。自分にとって気持ちよく支払える値段なら、なんかまぁ、いくらでもいいや、みたいな。もちろん、それで手に入る有形無形の商品なりサービスなりにそれだけの価値があると思えないと無理だけど。

むかーしむかし、営業をしていたことがあってお客さんから値切られる辛さも知ってるし(値切るということは、必ず誰かに皺寄せがいくんだよね)、わたしが払うお金で誰かハッピーになるならまぁいっか、って。でもだからこそ、誰に払うかは見てるかな。しょーもない奴には払いたくないじゃん。

それくらい軽いノリでお金と付き合いたいんだよねぇ。前はもっと重い女だったから(笑)、お金側も困ったと思うのだよ。

変な圧がかからないほうが色々うまくまわる、というのは何においてもこの世の真理なのかもしれません。

そうそう、別件のこと、よくわかる!チップ文化とかもないからかな?あと自分で値段を決めるのも日本人は苦手かもね。3つくらい選択肢があって値段が選べるようになってると払うかも?

涙流すくらい感動してお金出さないっていうのは、わたしの美意識的にナシやな...。

それで思い出したけど、昔15-16人くらいが集まる小さな会で、チャリティのお願いしたけど1人しかお金出さなくてビックリしたことある。笑 だって、いくらでもいいんだよ?それこそ100円でも。

1人出してくれたなら万々歳か?もしくは会に集まってくれる人って主催者の鏡だから、わたしがそもそもどこかでお金を出し渋ってるってこと??いやいや、人それぞれの価値観だから仕方ない...とか色々考えちゃった。わたしだったら、参加してる会の主催者への応援の意味を込めていくらかは出すけどなぁって。

でも、それも自分の価値観で勝手にジャッジしてるってことだもんね。

お金の話は尽きないねぇ。また大濠公園のスタバで、ああでもないこうでもないとうだうだ話したいものです。

Thank you for reading!