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動物園の不思議

子供の頃から動物園に行くことは、
レジャーのひとつであり、楽しみなことであった。
おそらく、日本で生まれ育った人にとっては、これは当たり前の感覚だろう。
檻の中にいる肉食動物に何の疑問も持たずに
「大きいねぇ。すごいねぇ。」と感嘆の声をあげて、何事もなかったかのように帰って行く。

学校や幼稚園の遠足で訪れることもあった。
動物の絵を書いたり、感想文を書いたり。
子供たちが生の動物に出会える場として
教育上悪いものではないとの認識が現代では当たり前。

そんな動物園の存在認識を覆したのは、
アフリカ、ケニアにあるマサイマラ国立公園を訪れた時。
国立公園なんて名前だから、端から端まですぐに行って帰って来れると思い込んでいたけれど、
そこは紛れもない、壮大な自然界であった。

いわゆる「サファリ」とも呼ばれるその「公園」で私は、
ライオン、チーター、ヒョウなどの肉食動物から、
キリン、ゾウ、サイなどの大型草食動物、
ヌーやダチョウ、カバ、小さいものならフンコロガシまで多種多様な野生動物と出会った。
出会ったといっても、徒歩で探検して、、、というわけではない。
サファリツアーと呼ばれるものに申し込み、
熟練のガイドが運転するサファリカーに乗り、案内してもらうのだ。

彼らガイドは無線で仲間同士やり取りをする。
「〇〇でライオンが昼寝中!」
などと通信が入れば急発進、一目散にその地点に向かう。
様々なサファリカーが集まってくるので
昼寝中のライオンの周りはサファリカーだらけ。(それでも寝ているライオンがすごい)
ツーリストは車の天井から顔とカメラを出し、ベストショットを狙う。
一番いいポジション取りができたガイドは鼻高だ。

そんなツーリスト向けの国立公園ではあったのだが、
私にとって一番の衝撃は、
すべての物事が「動物主体」で動いていたところ。
いくら私たちツーリストが、肉食動物の捕食の瞬間を見たくても、
彼らがそれを見ることを許してくれないと見れないし、まずその狩りの現場を探すところから始まる。
滞在2.3日のサファリツアーでは、思い通りの動物に出会えるかどうかは運任せなのだ。

ちなみにサファリカーから降りて自由に歩き回ることは許されなかった。
動物の生活を、私たち人間が垣間見させてもらっているのが、サファリだった。

一方、慣れ親しんだ動物園ではどうだろう?
大抵の動物園にはライオンやゾウなどの大型動物がいる。見たい動物がいる檻に行けば彼らに出会える。
餌やりや沐浴が見学できるイベントがあったりもする。
それら全てが「人間主体」だったことに気付いた。
そらそうだ。人間が人間のために作ったのが動物園だから。

そんな至極真っ当な事実を、わざわざケニアを訪れるまで気付かなかったくらいに
私の中で動物園は生活の当たり前の一部であった。

そんなサファリで学んだ一番のこと。
「私たちは生きているのではなく、生かされている」ということ。

人間主体の近代化社会に身を置く私たちは
あたかも自分たち一人で生きていると錯覚しがちだ。

私たち人間の中で、野生世界に丸裸で放り出されて生き残れる人は、一体どれくらいいるだろう?
なんてったって今、私たちが口にする肉、魚、野菜、全ての食べ物がこの広大な素晴らしい自然から成り立っている。
地球の自然なしに、私たちは生きられない。

それだけれども、洪水や地震などその有り難き自然のネガティブな側面も身を持って体感している。
そう、人間は自然には敵わない。

そんなことを一人、サファリの夜にキャンプ地で考えていた。

今は二児の母である私は
年に数度、子供を動物園に連れて行く。
動物園に行くと彼らは必ず喜ぶ。
親として、動物園の存在はとても有難い。
様々な動物を一度に見れて、彼らに対する理解も深まる。

でも、これが「当たり前」の動物の姿ではない。
それをきちんと子供に伝え、
いつか彼らがもう少しいろんなことを理解できるようになった時、
私は再びあのサファリを訪れようと思う。

「今度は大切な家族とここに来よう。本当の動物園を見せるために。」

あの時、20歳の大学生が誓った、自分との約束を果たすために。


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