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プリン、日記、忘れる

コンビニでプリンを買ってきた。ゼリーがいいかなと思って行ったけれど並んでいる物を見たらプリンになった。最近プリンの気分になっていて頻繁に食べている。

子供の頃、父方の祖母はスーパーで買った同じプリンを常備していて、家へ行くといつも1個ずつ食べていた。母方の祖母はお菓子作りをよくしていて、プリンも作っていた。巣の入ったたぶんいまで言う固めプリンだった。

プリンを食べる時は木製のスプーンを使う。コンビニプリンでもなかなか飽きないのはカラメルに到達したときの湧き水感が毎回新鮮だからだと思う。

福尾匠さんが日記について書いている文章を読んだ。何もなかった1日を前に、エディタの空白を見つめる。福尾さんにとっても日々ってそういうものなんだ。空白があるからこそ、他の日や他の場所がそこへ滑り込んでくる、確かにそうかもしれない。

その文章は読書コラムだったから1冊の本をいとぐちにしていて、滝口悠生の『長い一日』が取り上げられていた。以前読んだ滝口さんの『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』が良かった。タイトルの通りこれも日記だった。『やがて忘れる』の世界は2018年で、その世界では『長い一日』はまだ連載執筆中だった。時間が経った。

『やがて忘れる』は日記なのだが、後日まとめて何日分も書いたりしていることがほのめかされているのもよかった。ただしこのことを意識したのは誰かの感想を見てからだったかもしれない。最初自分で読んでたときはただチャンドラモハンのことが気になっていた。その対象について詳しくなってしまう前の今しか書けない言葉があり、それについて忘れつつある過程の今しか書けない言葉がある。

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