個人の感性が織りなす音楽の多様性

こんにちは、miiです。
本日は、曲を聞いていて思ったことを語ります。

情報過多

情報過多とは、音楽の情報量が多いとかではなく、純粋に音楽自体を聴く時間が少ないなぁと。
時間です。
現代は様々な情報にあふれているせいで、音楽を真剣に聞くというシーンが少ないように感じます。
何かのついでに聞いたり、作業しながら垂れ流す、みたいな、そういう音楽の聴き方が多いです。
自分自身も耳がさみしいから聞くっていうことが多いです。
ノイキャンイヤホンも、周りのノイズを減らして音楽に集中するため、っていうよりかは、外界とのつながりを遮断するために使っている節があります。

真剣に聞くということ

なにも、上記の状況が悪いことではありません。
音楽の側面として、BGMという環境に則った音楽もありますので。

ただ、自分自身あまり音楽にちゃんと向き合ってないなって感じてしまっただけです。
カラオケのために、歌いたい曲を真剣に聞いたときに気づきました。
「音楽ちゃんと聴いてないな…」って。
音程があまりにもとれないため、耳に全集中して聞いてたら確かに想像の音程よりも違って聞こえました。
というよりも、音程を取るために歌詞と音程をその瞬間で記憶から掘り起こすことで、より複雑な脳の処理が行われてる気がします。
息遣いや語頭語尾の発音の仕方、アクセントの場所などいろいろなことが見えてきます。
さらに、ボーカルの声だけでなく、背景の演奏もすごい調和ができあがっているのも気づきます。
ただ、いい音程だなぁとかこのリズムすごっとかその曲を聴くことで呼び起こされる感情を楽しむだけではなく、作曲者の表現したい意図のようなものに一歩近づくような感覚が、その時確かに存在しました。

歌詞の意味

こんな仰々しいこと言ってますが、昔から日本語を理解するのが苦手で歌詞の意味などさっぱりです。
唯一ちゃんと自分で理解して血肉にできたものは、宇多田ヒカルの「One Last Kiss」です。
シンエヴァを3回劇場に見に行ってようやく何が表現されてるのかがわかりました。
でも、その時同時に気づいたこともあります。
それは、聞く人間が納得のいくメッセージに気づいて、それに納得のいく理由があればいいのだと。
ネット社会を見てると、正解を求めることに意義があったり、考えを一つのものに正そうとしている風潮があり、自分もそれに見えない恐怖がありました。
ですが、正解なんて人の数ほどありその多様性が芸術なんじゃないかとやっと理解しました。
まあ、この意見も僕自身が勝手に思ってるだけでこれが答えじゃないこともあります。

音楽も多種多様にあります。しかし、聞く人も多種多様いて、その複数の解釈が違った体験を生むこともあるかもしれないです。

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