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インスタとの確執

私はインスタが嫌いだ。

「こんな私素敵でしょ」「こんなに楽しい生活を送っているのよ」という自意識と傲慢さが嫌いだ。一人で勝手にやってくれ。

ツイッターが「陰キャ」のものならインスタは「陽キャ」だ。私は自虐やネタにあふれていてキラキラしていなくとも認められるツイッターのほうが落ち着く。もちろん現実は人を簡単に「陽/陰」に分けることなどできるはずもなく、どちからが100%であることはなく互いに補いあっているのだろう。だから同一人物がツイッターとインスタでキャラを分けて使うことだって日常茶飯事だ。

私は簡単に理解されることを嫌った。「今ここにいる」自分以外の自分が一人歩きすることは恐れた。インスタへ頻繁に投稿することは、「たった一人のここにいる理解を超えた特別な自分」への冒涜だった。たいそうな自意識なのだが。もしかしたら、私はインスタでキラキラした生活をこれみよがしに公表する誰よりも自意識過剰かもしれない。

ただ、社会人になる手前、もしかしたら社会人になったらいろんな人に気を回して今よりSNSを自由に投稿できなくなるかもしれない、と思った。なら今のうちに自由にSNSを使ってみようと思いたった。

こうして滅多に動かさなかったインスタにたまに投稿するようになった。

実際、投稿するようになって、「当たり前のように自分が好きで、たぶん親のことも好きで、自分の写真を公表できるくらいには容姿に自信があって、まるで世の中のすべてに感謝してます、幸せです、」顔をしている人たちが私は本当に羨ましかったんだな、と気づいた。

仲のいい友達は許せる、だって彼女たちが苦悩しながら生きていることを知っているから。でも顔と名前以外あまり知らない人たちについてはそのインスタ上の演出をもろに受けてしまい、私の黒い感情がうごめいた。

ただ、自分が投稿するようになってあまりに簡単にあっけなく「幸せです」「楽しいです」アピールができてしまうことに気づいた。その投稿した瞬間100%happyでなかったとしても、いともたやすくそんな風に見えてしまう。100%happyなことはそう多くないし、そうであってもわざわざ投稿しようとしないだろう。いろんな感情がうごめき、人は簡単にネガティブな方向にひっぱられてしまうからこそ、今日あったいいことを忘れないようにと投稿をしているのかもしれない。私が忌み嫌っていた投稿をしている人たちも絶対にその人なりの地獄があるのだ、と確信した。だって100%happyみたいな投稿を簡単にしてしまった私もその日のもやもやはたくさんあったのだから。

私は「好きなことを好きという気持ち」が大事だと言ってるマッキーの意見が小さいころはさっぱり分からなかった。最近になってしみじみとこんなに単純なことが「自分らしさ」を支えることを実感している。こんなにも「好きなことを好きと言える」のは尊いことだったのかと気づく。

自分の集めた「好き」の瞬間を公表することは「自分らしさ」を支えるうえで重要である。インスタでいいね数が非表示になってから、より健全に「好き」を公表するツールとして使用できるようになった。

自分の「好き」を公表し、人にそれを認めてもらうことは幸福なことである。人から認めてもらうために必死になることが不幸なことだけれども。もし自分の「好き」から人とコミュニケーションが生まれたらそれは素晴らしいことだ。

インスタに投稿する回数を増やすことで前よりはインスタを好きになった。まだ苦手だけど。これからもいろんな実験を重ねて自分にとって心地よいSNSの付き合い方を研究していきたい。