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人生は「な~んも考えない」修行?

「な~んにも考えない」OSに切り替えると昨日決めて1日。ついつい考えてしまう。でもわかったことがある。

「な~んにも考えない」の「考えない」は出来事への反応である思考に反応しないということだ。頭は常に周囲の環境に反応して思考を生み出す。

だから頭を空っぽにすることはむずかしい。悟るか、トランス状態のようにならないと。頭はつねに目に入るもの、聞こえるもの、匂うもの、体感するものなどに反応し、それらを認識し、関連した記憶や思いや感情を生み出すから。

「な~んにも考えない」はこの反応である思考をもたないということ。出来事に反応しないということ。反応が起きたら「考えてる!」と気づいて流す。これが今のところの「な~んも考えない」の私のトレーニング。

トレーニングと言っている段階で、力が入っているけれど意図的にやらないとつい深刻に考えてしまう私の場合、まずはここから始めるしかない。そのうちそれが当たり前になれば、自転車に乗るようにできるようになるだろう。

これをやりながら気づいた。反応の仕方で世界が変わるんだなってこと。この出来事への反応の仕方によって思考が変わり、その思考が世界創造のオーダーになるので、結果、その思考のエネルギーで世界ができる。これが思考が世界を作るってことだなあって。

たとえば自分が気になっている異性が他の女性もしくは男性と親しく話しているところを見たとする。

出来事はただそれだけなのに、嫉妬や憎しみや自己否定が生まれるとしたら、出来事への反応である思考が「私は選ばれない」「私はおとっている」「私は愛されない」「愛される価値がない」であると、それを象徴する証拠としてその出来事を判断する。これが続くとやがてこれらの思考の前に「やっぱり」がついて強化される。

すると、「やっぱり私は愛されない」というオーダーができあがり、世界はまんまとそういう仕様になっていく。

出来事への意味付けは、反応である思考。

だから、自分の世界を変えたければ、この意味付けを変えるか、意味付けをしないの二択だ。

意味付けを変えるには出来事への反応の仕方、つまり思考を変える必要がある。

やってみるとわかるけれど、思考を変えるのは薄皮をはがすような地道で時間がかかる作業だ。一枚はがれると結構インパクトが大きいので感動はある。けれど、その後も同じものが出てきたり、別のものが出てきたり、きりがない。

はがれた分軽くはなっていく。

しかしここまでお読みいただいた方はお分かりだろうけれど、軽くなるためのプロセスをも深刻にとらえて考えてしまう私のような人は、思考そのものを手放さないと複雑で意味付けだらけで、解き明かすべき問題ばかりの世界に生きてしまう。

だから、反応しないことを、思考しないこと、解き明かさないことをするしかない。深刻にならないためには、思考を手放すしかない。

出来事に対し、ふーん、そうなんだ、としか反応しない。先ほどの例で言うなら、気になる相手が別の異性と仲良くしていても、ふーん、そうなんだ。

その出来事に何かしなければいけない、と思うから苦しい、焦る。その出来事はその相手が自分よりその異性を選んだということを意味しない。その異性より自分が劣っていることを意味しない。そもそも気になっている相手を自分のものにできるかどうかもコントロールできない。この出来事は出来事でしかないという事実に降参するしかない。

意味付けがあると、せっかく気になる相手と楽しく話せる機会があっても、どうせわたしは。。。に染まってしまって心は過去や未来に飛ぶ。

自分がその相手といるときに楽しく過ごせればそれ以外になにが必要だろう?

思考にとらわれてしまうと、別の人と楽しく話していたという過去の出来事と、このままだと自分は選ばれないかもしれないという起きていないしコントロールもできない未来に心が飛び、楽しく過ごせるはずの時間を味わうことができない。

この結果が「選ばれない」という未来や世界を作ってしまうのはスピリチュアルな法則なんかなくても明らかだ。だってそんな相手と一緒にいても楽しくないし。

トレーニング中の私にもさっそく課題となる出来事がおきた。

昨日、社交ダンスのレッスンを受けにスタジオに行った。昨日の夜からスタジオでは年に2回のフェスティバル期間が始まった。フェスティバルは6週間あり、いろいろなイベントやワークショップがつまった楽しいイベントである。

わたしはこの2か月半、股関節の故障で個人レッスンをお休みし、やっと1か月前からグループレッスンや練習パーティーにちょこちょこと出るようになったところ。

生徒は担当の先生から個人レッスンの前後などにこのイベントのお知らせをもらうのだけれど、私はそんな事情でお知らせを受けていなかった。個人レッスンのタイミングが合わなければ普通ならスタジオで顔を見た時に伝えてもらえるのだけれど、私の担当はそれをすっかり忘れていたというか、したつもりになっていたようで。

一度、練習パーティーで踊っているさいちゅうに、フェスティバルどうしますか?相談しましょう、と言ってきたけれど、ほんの数十秒の間に言われただけ。相談しましょうというからどこかで説明してくれるんだろうと思っていたけれど、その後いっさい説明も相談もなく。

友人たちからはフェスティバル出る?一緒に出ようよ、って言われたけれど、股関節の状態がどうなるかまったく予見できないし、休んでいる間にダンスの優先順位がだだ下がりだったので、気乗りがせず。先生から誘われれば考えもしただろうけれどそれも来ないから出ないつもりだった。

昨日がフェスティバルのキックオフで、その直前に個人レッスンを入れていて、そのレッスンが始まるときに私の友達が先生に耳打ちして私を誘うようにいったらしい。

それを受けてか、レッスンが終わった後にフェスティバルどうですか?と聞いてきた。

実は1週間前までに申し込めば特典のポイントがついたのだけれど、今申し込んでもそれもない。

以前の私なら、けっこう怒っていたと思う。

もっと早く言ってよ!
忘れてたでしょ?
休んでる私なんてどうでもよかったんでしょ!
相談しましょうって言ったのに!
ないがしろにされた。
忘れられた。
たいせつにされていない。

こんな意味付けがこの出来事に確実に貼り付けられていただろう。そして傷ついて怒っていただろう。

こういう意味付けの思考が起きはした。起きたけれど、あ、考えてる!と思って流した。

今もこうして書いて思い出していると、やっぱり反応が起こる。反応しているなあ、って思いながら流す。

先生はよく忘れる。こういうところに気が回らない人。
でも、わたしがついていこうと決めた先生の価値はこういうところにはない。

だからこの出来事は、私がないがしろにされた証拠ではない。
忘れられたわけでも、たいせつにされていないわけでもない。

大切にしているというメッセージは、先生ならではの別の形で示してもらっている。

反応しないと、面白いことにこんな風に反応が勝手に変わる。ポジティブに反応を変えようとしても反応は変わらない。たぶん、陰の反応を力技で陽に変えようとしても反発がおきるのかもしれない。

反応をキャッチ⇒考えていると気づく⇒流す・手放す⇒今に戻る。

この繰り返し。

もうなんなら、今起きているすべての出来事はこのトレーニングのための課題じゃないかと思う。てことは、人生はこのトレーング場なのか?修行の場なのか?

それならいっそう、無心で取り組みましょうかね。人生と言う名のトレーニングに。

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