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「ない」の欠乏感を「ある」の豊かさへ

豊かさを創造するには、欠乏ではなく「ある」ということを感じること。

この視点に出会ったとき、なるほど!と思ったと同時に、「ない」を感じているときに「ある」を見つけることにむずかしさを感じていた。

難しいなあ、できていないなあ、という思いが生まれるということは、この思考はうまく機能しない。だって、難しい、できていないというのは「ない」を感じまくっているから。「ある」を無理やり感じようとすると、むしろ「ない」を強く感じることになる。

ふと、けっきょく「ある」のは自分だけなんだと感じた。自分がある、を感じるだけでそれが「ある」なのだ。

「ない」を感じているときも、「ない」を感じている自分という存在が「ある」のだ。

ああ、「ない」と感じているなあ。そういう自分がいるなあ。これは「ある」だ。

そもそも魂は「ある」でも「ない」でもどちらか一方の体験をするために、肉体の器にはいって生まれてきたわけではない。この器を通して自分が創造したものを体験しにきた。だから「ない」という体験があって、それを体験する自分が「ある」ことを感じればそれでいい。

「ない」と感じているその状況を、むりやり「ある」に変えることは「ない」を強めてしまう。「ない」を感じている自分が「ある」を感じれば、それは「ある」の確認になる。

これでいい。なにごとも無理やり思考をポジティブにしたり、感じてしまうものを感じないようにすることは、結局はエゴの操作で、魂の望みからは離れるものだ。

穴は「ない」ものなのか、「ある」ものなのか。穴の周りを構成する素材がない部分が穴なのか、穴という存在があるものなのか。

素材が欠損した部分と思えば「ない」けれど、穴という存在が「ある」と思えばそれは「ある」のだ。

どこまでいっても、生きるというということは自分という存在を味わい知り尽くすことだ。事象に対し、それを「ある」と感じようが「ない」と感じようが、自分が存在していることに変わりはない。自分こそが創造したものはすべて「ある」ということの証明なのだ。

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