数字


震災から10年。

ここ1週間くらい、やっぱりこの話題が多くて。

10年、10年って言われて、それなりに多くの人が思いをめぐらして、祈って、考えたんだろうな。震災のこと。
わたしもそうだよ。

今年はいつもよりしっかり考えよう、
今年は例年と比べて何ができるのかな、
今年こそはちゃんと書きあらわしてみよう、
とか、

10年目の区切りに合わせて、いろいろ考えて、考えて、考えていたのだけれど、考えるほど、もう答えというか、思いをいたしたいものからかけ離れていく感じがして、全然なにも出てこなかった。


ふとね、「10年」って、なんの意味があるんだろう、なんでこんなに持ち上げられるんだろう、って考えたとき、どう考えても、
「スッキリする数字」
「区切りが良い数字」

であるだけで、それ以外のなにものでもないなぁと思ったよ。あたりまえなんだけれど。

なんだかそれに何の考えもなしに乗じて、「いつもより」とか、「ちゃんと」とか考えようとしている自分が恥ずかしくなっちゃった。

「キレイな」数字が、ほかの数字より価値を持っている
とか
「大きい」数字が、小さい数字より重んじられるべきだ
とか

10年経ったから復興できた、とか
10年経ったから傷が癒えた、とか

そんなことは
どこに映る誰も言っていないのに。
わたしだって、10年経ったからって答えなんて出やしないのに。


なにもスッキリしていないよ。
ことの多くは区切りがついていないよ。


お祝いごとだったらスッキリする数字がたぶんほかの数字よりも心地よいし、区切りとともに何かを始めるとか、なにかを始動させるとか、
晴れたこころに、晴れた数字は似合っているよ。

でも、震災も、ましてや終戦や、ほかの数々の悲しい記憶を残す日々も、起きてほしくなかったことに、「キレイだから」って、強制的に区切りをつけさせる、つけられることなんて、ほんとうは嫌だよね。

そんなきもちをどこか押しころしながら、意味や価値の強弱を、悲しい日に無意識レベルでつけていた。
震災でなくとも、戦争も、コロナも、だいじなひとの死も、ひとりひとりの記憶に残る悲しい日々たちは、「いつも」がどれだけ大事だったのか、たくさんたくさん教えてくれたのに。
まっさきに「いつも」に「より」をくっつけたがる。

「いつも」のだいじな価値をつぶそうとしていた自分が悲しくなっちゃったよ。


列車の発車時刻とか、集合時間とか、人数などの報道とか…

数に本当に几帳面な日本人…というか、日本の国としての文化にも少しだけなっているけれど、この几帳面さは、美しさだけを求めていくようにはしていきたくないな。

どの数字にも、どれだけ数字が重ねられても、どれもひとしく愛せるような、想いがいたせるような、そんな几帳面さは末長く、だいじにできますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?