【第十一回】チャップリンが生きた道~街の灯編①~
「サーカス(1928)」の次の作品「街の灯(1931)」について紹介していく。
チャップリン映画史上「ロマンチックで笑いと涙がこぼれる一作」として大きな評価を得ており、公開後すぐに大ヒットを収めた。2005年の米タイム誌の「ベスト映画100本」に選ばれた映画でもある。
これまでも心がほっこりするような作品を生み出してきたが、「街の灯」は群を抜いて人の心に働きかける作品となった。
本作は放浪紳士チャップリンが恋した、盲目の花売り女性のために、汗水たらしながら目の治療費を稼ぐというストーリーである。
一見、王道ロマンチック映画に思えるが、冒頭シーンを観ていただきたい。
「平和と繁栄の像」の除幕式を行っている中、像の上で眠るチャップリンは式典の主賓たちから邪魔者扱いされている。
像の上から離れないチャップリンを主賓たちは追い出そうとするが、国歌が流れると義務的に敬礼をする。「平和と繫栄」を祝福する式典なのはずだが、社会的弱者である放浪者は祝福の対象ではないこと示している。
冒頭でいきなり、「平和と繫栄とは一体?」と語りかけてくるのが、非常に痛烈である。
表向きだけ良い顔をした主賓たちの愚かさ、除幕式の無意味さを冒頭で見せつけてくるのだ。
さて話は進み、泥酔した富豪の男が自殺を図ろうとする場面に遭遇したチャップリンは、なんとか説得し自殺を止めることに成功する。命の恩人として富豪はチャップリンに感謝をし、自宅に招いた。
朝まで酒を交わし仲良くなり、翌日チャップリンは富豪のもとへ尋ねたが、酔いから醒めた富豪はチャップリンのことを全て忘れており、追い出してしまう。
その日の夜、街中でチャップリンは酒に酔った富豪と再会し、自宅に招くが、翌朝に酔いから醒めるとチャップリンのことは覚えておらず、無慈悲に追い出すのだった。
本作では、このような一連を繰り返すのだが、一般的に富豪や紳士と呼ばれる人々を痛烈に批判しているのが伝わる。
都合の良いときだけ貧困者に優しさを見せつけ、用が済んだら冷たくなるという偽善的側面を見事に描いているのだ。
さて、チャップリンの少年時代の話になるが、個人的に興味深い話があったので抜粋してみる。
チャップリンや母ハンナたちは貧困のあまり、食事するのも精一杯だった頃の話だ。
ひょんなきっかけで、富裕層である母ハンナの旧友の屋敷で住むことになったのだ。
友人の屋敷では「とびきり贅沢な生活」ができていたらしく、チャップリンは徐々に上流社会の生活にも慣れてきていた。
しかし、裕福な屋敷での生活は続かず、パウナル・テラス三番地(チャップリンたちが住んでいた屋根裏部屋)に戻った。自分の家に帰ったチャップリンは「パウナル・テラス三番地に戻るのは悲しくはあったが、自分の気ままな生活に戻れることには、内心ほっとした。」と語り、母ハンナが言うには「客とはいわばケーキのようなもので、日を置きすぎると硬くなって、まずくなってしまう。」とのこと。
このエピソードが直接的に「街の灯」に反映されているわけではないが、「富裕層は都合の良いときだけ関わってくる存在」と、チャップリンは少年時代に悟ったのではないだろうか。
とはいえ、一時的な裕福な暮らしについては「短期間の贅沢な経験をもたらしてくれたシルクの糸は、ぷつりと切れ、わたしたちはふたたび、いつもの貧乏暮らしに戻ったのだった。」と話しているため、悪い思い出ではなかったようだ。
ー続く
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