目は開けたまま、舞台は終われども。––屋根裏ハイツ 5F 演劇公演『ここは出口ではない』

1 佃煮となめたけ

A なめたけって佃煮なの?
B …佃煮でしょ、
B スーパーの分類では、同じところにいるよね、

 なめたけ(の醤油炊き)が(海苔の)佃煮と同じであるかは、双方を定義する仕方に依るだろう。だがB(作中で「シホ」と呼ばれる、Aと同棲している女性)にとって両者の異同は、スーパーでの陳列のされ方という、場の近接の度合いで測られる。当然、その尺度を正当化する根拠などない。だが多くの人々と同様に彼女は、同じ場所に置かれた佃煮となめたけに、置かれる場所の同質性を超えた差異をわざわざ認めたりはしない。
 2018年12月、横浜のSTスポットで上演された屋根裏ハイツ 5F 演劇公演『ここは出口ではない』には、同種の仕掛けが他にも現れる。グスタフ・マーラーは「音楽室に下がってる絵」でJ.S.バッハと隣同士であるかどうかで、その性質が測られるし、マーラーのコンサートを聴いた直後にファミレスで耳に入る楽曲は、マーラーのものである可能性を示唆されてしまう。近接によって性質の差異を超えるという、佃煮となめたけ式のギミック。それは観客と演者との間にも、作品の冒頭から作用している。
 開演前、観客席後方から四人の役者たちが舞台に向かってぞろぞろと歩いてくる。Bを演じる宮川紗絵だけが舞台上で立ち止まり、残りの三人は舞台袖へとはけていく。宮川は上演前の諸注意をたどたどしく語り始める。観客に見られていることを過剰に意識しているかのように、視線をうつむかせながら、いかにも居心地の悪そうな様子で。宮川が床に寝転がり、気だるげな様子を見せることが上演開始の合図となる。直後に登場するA(佐藤駿)とともに、彼女は日常の発話と同じくらいの、ボソボソとした声量で喋り始める。その様子は上演前とはうってかわって観客に見られていることを忘れているかのようであり、舞台上には家でくつろいでいるときのようなけだるい時間が仮構される。観客はボソボソとした声を聞き取るために舞台上に神経を集中させることで、作品の時空間が立ち上がる様を鮮明に印象付けられることになる。
 舞台上に立ち上がるフィクショナルな時空間は、いうまでもなく観客の属する現実の時空間とは異なっている。役者の発話や振る舞いにいくらリアリティがあろうと、観客は実際にAとBとが同棲する家の中にいるわけではないし、作中に流れる時間と現実の時間経過も、厳密に一致することがないからだ。だがフィクショナルな時空間と現実の時空間は、この作品においては佃煮となめたけのように隣接することでその差異を超えてしまう。例えば、途中入場する観客の立てる物音や観客の咳に、舞台上の人物たちが敏感に反応する時。あるいは、伏し目がちに言葉を発する登場人物たちがふと目線を上げ、観客と目が合ってしまった際に、気まずそうに目をそらす時。目の前の舞台で立ち上がるフィクションは、その現前性(≒近接性)ゆえに現実の時空間との差異を超えていく。

2 コーヒカップがつなぐもの
 この劇の見せ場の一つに、Aが故人であるC(村岡佳奈)の思い出話を語っている最中、そこにいないはずのCが突然現れ、何気無く会話に参加するという場面がある。もちろん、すでに形式面において時空間の差異を超えているこの作品において、単に生者の生きる現在に、過去を生きていた死者が紛れ込んできたというだけならば、何一つ驚くに値しないだろう。だがこのシーンを含む一連のシークエンスは、観客に大きな衝撃を与え、確実に見せ場たりえている。それは一体なぜか。
 Cについて語るAの語りは、蛇行が多く、句点がないままダラダラと続いている。その一部分を抜き出してみよう。

駅のロータリーで待ち合わせて、あれなんでだっけな?いや、なんか順を追って話すと、ヨウちゃんってこっち住みじゃなくて大学はどっか別だったから、久しぶりに帰ってきたから飯でも行こうってなって、だから夏休みだったはずでその時は、で、そんなすごい仲いい常に連絡とってるみたいな関係じゃないのね俺とヨウちゃんって

過去の出来事を一つ一つ思い出すかのようでありつつも、現在の話し相手に向かって二人の関係性を説明してもいるAの語りは、過去と現在の両方に触れている。この語りによって現在と過去が近接させられた時点で、過去を生きていたCが現在に登場するための土台は準備されたと言っていいだろう。同じ理由で、この語りの最中、Cが唐突に登場してきた際に行われる時空間操作も、見事ではあれど驚くことではない。

A は、なに、コンサート?なにコンサート?したらクラシックの、とか言ってクラシックの、は?なに、なにコンサート?

この時点では、まだAが現在においてCの思い出話をしているだけだ。だが直後。

C マーラー、
(中略)
C マーラー、(恋人が)クラシック好きで、
A マーラー、
A で、来るの?
C そうそう
A じゃ、待つよ
C いいよ、お茶とかどっか行こうよ、

Aの問いかけに応えるようにしてCが発話した瞬間、語っている現在は語られている過去へと、シームレスに移動する。AとCの会話は、現在を意識の外に置いたものとなる。むろんここまでなら、前章で見た佃煮となめたけ式のギミックで説明が可能であろう。生者の生きる現在に過去の死者が紛れ込むことができるのならば、その逆もまた然りだからだ。だがたった一つの小道具、コーヒーカップが、真に驚くべき展開を用意することになる。
 このシーンにおいてBは、語られている話題について全く知らず、AとCの過去に触れることができないため、一人現在に取り残されてしまっている。手持ち無沙汰のBは台所に行き、AとCのためにコーヒーカップを持って来る。だが彼女が机の上にコーヒーカップを置く時、AとCは彼女のことを一顧だにしない。観客の物音にすら敏感に反応する彼らの無反応が示しているのは、舞台上に出現している二つの時空間(AとBが属する過去、Cの属する現在)が、厳然と隔てられているということだ。
 だが直後、Aはコーヒーカップに手をつけ、喉を潤す。コーヒーカップはその時、切り離された二つの時空間の蝶番となり、舞台上を現在であり過去でもあるような、確定しえない時空間へと変貌させる。この曖昧な時空間は、AとCの過去を聞き終わったために、やっと過去に触れる資格を得たBが、現在時から言葉を発した瞬間、現在へと収斂する。それによって過去に生きていたはずのCは現在に滑り込み、その身体に触れられるほどの現実性が付加されることになる。
 Cが現在に係留されたのと同時に、Aも過剰なまでに現在に紐づけられることになる。この場面を境に、Aは過去へのアクセスがうまくできなくなってしまう。彼は自らの話したことや、過去の出来事を忘却することが多くなり、例えば4場「来訪者」における、過去を一つ一つ思い出すかのような長い回想においても、記憶違いや錯誤を数多く指摘されてしまう。
 現在に強く紐づけられ、過去へのアクセスを失調させられたAにとって、ともに過ごした時間の多寡は問題とはならないであろう。それゆえ4場における、初対面のD(横山真)を唐突に部屋に招き入れるというAの行為は、奇妙ではあるものの荒唐無稽ではない。問題となるのは、家に帰れなくなってしまった一人の人間がAの目の前に現前しているということと、それに対する憐れみのみなのであって、Dが初対面であり、ともに過ごしてきた過去がないという事実は何も問題とはならないのだ。

3 コンビニがやっていない日
 ここまで語ってきた死者の唐突な出現や、初対面の人間の理由のない招き入れという突飛(ではあるが必然的)な展開、あるいは時空間のアクロバティックな操作という要素を取り出してみたとき、『ここは出口ではない』はいささか前衛的な作品にも見えてしまうが、むしろこの作品に対する第一印象は、静かで日常的である、というものであった。セリフには蛇行していたり曖昧であったりする部分が多く、約90分間の上演を通して、淡々とした日常の発話が積み上げられていったという印象を受けた。
 日常的でありつつ、その積み上げられた日常の中に、突飛に見える展開やアクロバットじみた操作があるということ。その特徴は、冒頭において既に現れている。

A ただいま
B  …おかえり
A うん
B コンビニ行けた?
A あー、
A やってなくてさ、
B え、やってないってことある?
(中略)
B いつもいってるところ?
A そうそう、

 いつもはやっているはずの、コンビニがやっていない日。淡々とした日常ではあるものの、それはどこかで箍がはずれてしまっている。印象に残りにくい点ではあるが、考えてみればAとBの同棲する部屋の外は、停電していないにもかかわらず街灯が全て消えており、かつ電車事故によって地下鉄が運休しているという、非常時とも言いうるような設定があるのだった。もちろん、この劇に非日常において日常を生きてみせる時の、堅苦しさのようなものはなく、あくまで日常に内在しつつ、そこにエラーがさりげなく埋め込まれているというのが実態だ。
 日常と非日常のマリアージュにおいて、Aによる過去へのアクセスの切断、すなわち「忘却」というテーマは、はっきり言って取り合わせが悪いように見える。それは屋根裏ハイツが仙台を中心に活動しているという、その地理的な来歴によって想起されるカタストロフの記憶が、まさに忘却の憂き目にあっているという事実が傍証となるであろうし、作中で幾度か言及される葬式(喪の儀式)が、現在を生きる生者に、死者の感じた痛みを忘却させないために執り行われるものであることを考え合わせると、なおさらであろう。
 だが屋根裏ハイツが仕掛ける「忘却」のロジックは、幾分か入り組んでいる。まずAは死者のことを忘れているというよりも、Cが死人であるという事実を忘却している。Aはむしろ、Cを回想することで死者を現在に呼び戻し、その死者が死者であるということを忘れ、「うん、だって、いるし」とあっけらかんと言い放ってみせることで、彼女を現在に歓待している。そこにはあるのは徹底的な現在への内在であり、現前しているものすべてをフラットに受け入れてしまうような態度だ。「今、ここにいる」ことが、他者(死者)と自ら(生者)の性質の違いを超える。隣り合う、佃煮となめたけのように。
 もちろん、以上の話は東日本大震災以後、被災地において数多くの霊体験が記録されたという事実と比較可能なのかもしれない(「『私は死んだのですか?』東北被災地で幽霊が出現した意味」最終閲覧日時2018/01/27 12:24)。だが忘れてはならないのは、あくまでこの劇の舞台設定が、「コンビニがやっていない日」でしかないということだ。つまり、コンビニが稼動できない日ではない。非常時の上に日常が仮構されているのではなく、日常の中に否定辞などのギミックによって非日常が埋め込まれているにすぎない。起伏の少ない日常の中には、それとは異質なものが、やり過ごされるほどのさりげなさで胚胎しているのだ。その異なるものを歓待する技法として、「忘却」はある。
 では、歓待された異質なもの、Cには何が起こるのか。彼女には生前、頻繁に見ていた夢があった。その夢自体は、どうとでも解釈できるような摩訶不思議な夢である。だが彼女はそれを、自らが誤ってペットを殺してしまった記憶と結びつけている。その話を聞いた時、Dは唐突にその夢を再現しようとする。Cのことを何も知らないDなりに、彼女の話を理解しようとした結果なのだろうか。Dの行動を皮切りに、AとBも夢の再現に努めるのだが、どうもDのイメージが他の三人と食い違ったり、Aの行動がCの想起を邪魔してしまったりと、ちぐはぐな様子が繰り広げられてしまう。
 それでも再現に努めた結果、Cは夢を少しだけ更新することに成功する。今まで感じたことのない、「気持ちよくなってきた」という感覚を新たに手に入れるのだ。再現の後も、依然として夢の意味は謎のままであるし、新しい感覚の獲得が、何か目に見えた変化をCに与えるわけではない。だが自らを更新するCはこの時、完全に死者と生者の境を超えている。

C 帰ろうかな、
B どこに?
C 自分の家、
B 帰るんですか、
C もう夜明けでしょ、

夜明けを迎えた死者が還るべき場所は、自分の家ではない。にもかかわらずCは、いとも簡単に自分の家に帰ると発言する。直後、帰宅したCについて、Bは「なんかきっともう二度と会わない気がするけどね、」と呟き、死者と生者の邂逅の特殊性を強調する。それに対してAは「確かになぁ、」「会わない気もするねぇ、」と応答する。この二つのセリフにおける助詞の変化、「会わない気『が』する」と「会わない気『も』する」の差異は重要だ。Aはこの「も」によって、Cを再会できない相手ではなく、再会の機会があるかどうか微妙な、そこまで仲良くもなかった旧友程度の存在として扱ってみせる。実際問題、Cが自らの家に帰ることができたのか、あるいは帰ることができたとして、そこが依然としてCの家であり続けていたのかは、定かではない。だが、Aにとってそれらは大した問題ではない。他者を現在に歓待した彼にとって、死者であるCもアクチュアルに現前しうるものとしてあり続けている。逆説的なことに、そのときCは忘却されるものとは正反対であると言える。
 この作品の結末部において「俺も寝るかー、」と呟くAが、自らの言表とは裏腹に目を閉じることがないのも、以上のことと関わっている。照明が暗くなり、舞台は強制終了されるが、それでもAは目を閉じない。この作品の特異なシーンの一つに、舞台上の人物が全員はけ、舞台袖でボソボソと会話をするというものがあるのだが、観客は(眠らずに観劇を続けている限り)見えない彼らの存在を疑うようなことはないだろう。仮に聞こえてくるセリフが録音された音声であり、実際に舞台袖に役者たちがいなかったとしても、その存在を疑うことは(ほとんど)ない。
 それと同じように、舞台が終わろうともAが目を開け続けている限り、彼にとってアクチュアルなものが消えてしまうことはないのだ。死者であるCも、死んだように眠るBも、別の時空間に属する観客も、自らの暮らすフィクショナルな時空間も、過去の忘却によって現在に強く紐づけられた彼にとっては、アクチュアルである限り現前する資格を持ち続けているのである。コンビニがやっていない日、日常に胚胎する異質なものたちを歓待する時間(忘却)の果てに、彼は生真面目な応答によって、招き入れたものたちへの責任を果たすのだ。

4 遺体の顔
 あと一点、この劇における敏感な身体について語ろうと思う。それを語ることが、この作品を観劇することの効能について語ることにも繋がるだろうから。
 登場人物たちが観客席の物音に敏感に反応し、身体の動きを変えることについては既に語った。あるいは、舞台上に人物が増えるにつれ(もしくは減るにつれ)、彼らの振る舞いが微妙に変わっていくことも一目瞭然である。彼らの身体が外部からの圧力に敏感に反応していること自体は、いまさら語るまでもない。だがその敏感さが、反応という一事にのみ収まらないとしたら、どうか。

A 葬儀のとき、棺の中のヨウちゃん(C)を見たときは、そのときは正直あれヨウちゃんこんな顔だったけかなって思ったんだよね、
A あんまりじっとみたわけじゃないけど、後ろもいたしさ、
B うん、
A 今は顔がどうとか思わないんだよな、ぜんぜん違うとか、一緒だとか、でもその時は、会場に名前あったし、まあヨウちゃんなんだろうみたいな、

なぜ、葬儀の際にAは、Cの顔を別人であるかのように錯覚したのか。その答えは、別の葬式について語るDの言葉に現れている。

D そういう母って僕は知らないんですね、家ではあたり前だけど母は母だったから、知らない部分を見たなって感じで。葬儀のとき参列する人が母の棺に声かけたりとかするじゃないですか、そういうの見てると、ミチコさんって言ったりみっちゃんって声掛ける人がいたりして、僕は母さんっていったりその呼び方がそれぞれで、あー、母は、母以外の何物かだったんだなというか、

Dの母が「母」であるのは子であるDとの関係性においてのみであり、Aにとってヨウちゃん(C)が見慣れた「ヨウちゃん」であるのは同じくAとの関係性においてのみである。AがCの遺体を本人だと認識できなかったのは、Cの遺体の顔が、自らと関係しているときのものとは違ったからであろう。むろん、その変化はBにとっては知覚できるほどのものではなかった(「別に葬儀のときもそんなことは思わなかった」)。だが幾分かは、彼らの身体が関係性によってその有様––反応よりもより根本的なレベル、人物誤認を誘発してしまうかもしれないレベルで––を変化させていると言えるだろう。現に、作品冒頭において諸注意を語る宮川紗絵が、登場人物としてのBに変容するトリガーは、観客との関係を一旦断ち切って、登場人物たちとの関係をとり結ぶことであったのだから。
 ここからこの作品における身体について、二つのことが言える。一つは、他者の身体は今見えている有様が全てではないということ。目の前の身体は、今ここの関係性とは異質な有様を胚胎している。もう一つは、その異質な有様が、例えば葬式における他者の呼びかけという形でアクチュアルに感得される時、それを現前しうるものとして歓待することができるということ。遺体の顔がいくらAに錯誤を起こさせようと、それはやはりCの顔なのだ。
 
 私がこの作品を観劇したのは、千秋楽の12月23日14時の回であったのだが、終演後には台本が売り切れており、最後の1冊を買ったという人に台本を借りてこの劇評を書き始めたのであった。そのとき、公演の正式なタイトルを確認するためにまず開いたのは奥付のページで、そこに書かれた「人が生き抜くために必要な『役立つ演劇』を創出することを目的とする」というフレーズに、思わず膝を打ったのを覚えている。
 この劇から直接的な教訓を引き出すのは、容易ではないだろう。だが、異質なものと交感して自らを変容させつつ、自らであることを保ちもする身体を見ることは、当然それを眺める側にも、身体を点検し直すことを迫る。それは、一つのレッスンを受ける感覚に近い。その経験が、カタストロフや非日常を媒介することなしに、ただ日常の中に異質なものたちを埋め込む(あるいは、既にあるアクチュアルな異質にフォーカスを当てる)だけで行われてしまうのだから、当然生き抜くための役に立つ。「あの悲劇」によって全てが変わったのだという前置きは、全く必要ないのだから。
 その役立ちはもちろん、舞台は終われども、そこで養った目を開けたままでいることによって可能となる、と言えるだろう。

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