地点『グッド・バイ』劇評

空間現代の演奏に合わせて、後期太宰作品のセリフとともに「グッ」「ドッ」「バイ」という合いの手を入れ続ける役者たち。彼らの動きは、徹底的に様式化されており、からくり時計の人形を思い起こさせる。その印象は、彼らの衣装が太宰作品の登場人物たちを想起させるものであること(セリフを聞く限り、役者たちに役という役が割り振られていないにもかかわらず、である)によって強化されている。後期太宰作品、殊に『斜陽』の登場人物たちは、喪われていく階級のステレオタイプを形象化した存在であるが、三浦基の演出は、登場人物の作り物性をさらに肥大させている。

登場人物たちが常同的に発する「グッ」「ドッ」「バイ」という合いの手は演奏がふと途切れる瞬間、いわゆる「タメ」の瞬間に中断される。外部から与えられた力によって行動が中断されるというのは、地点の作品においてはおなじみのモチーフだ。だが自らが自らであることに安住することができず、常にアイロニカルな自己相対化を重ね道化のような振る舞いをしてしまう太宰的登場人物にとって、中断は所与の条件でもある。だからこそ、彼らは「タメ」の度にわざとらしくズッコケてみせ、中断そのものを様式化(お約束化?)することができる。無論それは、太宰が敏感に捉えていた戦後日本における中断(民主主義への転換)と常同性(天皇制)の共立、あるいは「トカトントン」における中断(「トカトントン」という幻聴の反復による行為の中断)と、中断自体を主題とする手紙を書き続けるという常同性との共立と、決して無縁ではないだろう。

とはいえ動きや合いの手がいくら様式化されていようとも、それらを実際に行う人間の身体には限界がある。約75分間の上演中、それなりの音量で鳴り続ける空間現代の演奏に、肉声のみで対抗しなければならない役者たちの声や身体への負担は生半可なものではなく、「グッ」「ドッ」「バイ」という合いの手は、次第に音が外れたり、声がかすれてしまう瞬間が目立つようになる。繰り返し行われる酒瓶を掲げる動作においても、手の微妙な震えを隠しきることができなくなる。だからこそ劇が進むにつれて、「グッ」「ドッ」「バイ」が中断されることは減っていく。太宰作品由来のメタ意識・道化的な振る舞いが中断と常同性とを共立させてしまうかぎり、演奏の「タメ」による中断は大した事態ではないからだ。むしろ声の肌理や身体の震えが、繰り返される「グッ」「ドッ」「バイ」の中で目立ち始めることの方が、真に注目すべき事態なのだ。

何かしら、変ってきていたのである。終戦以来、三年経って、どこやら、変った。(太宰治「グッド・バイ」)

原作の「グッド・バイ」において既に、中断ないし「変った」というのは偽の問題であった。物語は、主人公である田島が後ろ暗い商いや女遊びをやめて、家族のために生きようと変心したと語るところから始まる。その語りのシチュエーションが終戦の三年後、「或る老大家」の告別式の帰りであるという点に様々な意味を読み取ることができそうだが、重要なのはむしろ、田島が薄汚い損得勘定からも、女あそびに付随する虚栄心からも、結局逃れることができないことの方だ。愛人と「グッド・バイ」するようには中断できない常同性が、そこにはある。

地点版『グッド・バイ』は登場人物たちが過度に様式化され作り物じみているからこそ、その振る舞いに様々な意味を自由に読み込むことができる。それゆえにこの常同性を、戦後日本のみならず3.11以降の日本の問題として読むことも可能であろう。我々は中断されることなくのっぺりと続く現代に、声の肌理や身体の震えという不気味さを見出すことができるのかもしれない。地点版『グッド・バイ』を鑑賞することは、そのためのレッスンとして機能している。

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