法身普賢仏の、誓願
はじめに
「法身普賢仏誓願」は、極めてパワフルな誓願文であり、特に死者への祈りにおいて大切なものとなります。
「法身普賢仏誓願」というタイトルはおそらく海外で使用される言い方で、チベット寺ではもっぱら「ムンラム・トッポチェ」(=極めてパワフルな誓願)と呼称しています。
「普賢仏」(サマンタバドラ)という尊名は、古訳派(ニンマ派)における法身の仏陀のことで、(八大菩薩の中の)普賢菩薩とは異なります。
新訳派でいえば持金剛仏(ヴァジラダラ)。日本でいえば大日如来といったところでしょう。
たとえば以前の投稿にも登場したカギュー派の高僧ガルチェン・リンポチェは、この誓願を印刷して普段から携行することを推奨されています。さらには日課経典の1つとして唱えることも推奨されています(必ずしもチベット語ではなく、意味のよくわかるよう自国語で唱えてよいとのこと)。
また月食・日食が起こる時や、夏至・冬至・年越しの瞬間、地震、その他の「環境異変」の際に読誦することが推奨されます。
先日、夏至入りの瞬間にはじめてTwitterのスペースを使って唱和をしました。今後は上記の機会にできるだけスペース等をつかってお唱えしていきたいと思います。
当初は講員さまだけに公開する予定でしたが、しばらくは一般向けに日本語訳をここに公開することとします。
日本語訳をここに公開することで、平和と安寧が世界にもたらされることを願っています。
法身普賢仏誓願(クントゥサンポ・ムンラム)
༄༅༔ ༔རྫོགས་པ་ཆེན་པོ་ཀུན་ཏུ་བཟང་པོའི་དགོངས་པ་ཟང་ཐལ་དུ་བསྟན་པའི་རྒྱུད་ལས༔ སྨོན་ལམ་སྟོབས་པོ་ཆེ་བཞུགས་སོ༔
ホー!
顕れと存在、輪廻と涅槃の一切は
一基、二道、二果にして
明・無明の為せる変現なり
願わくば普賢仏の誓願により
一切が法界宮にて円満し
仏陀と成らんことを!
一切の基(真如)は無為法にして
言説を超越した、自生の広大なる界で
そこに「輪廻」「涅槃」の名称もない
それを明了すれば仏陀となるが
無明なれば衆生として輪廻を転ず
願わくば三界有情の一切が
言説を超越した基の真実義を明了せんことを!
普賢仏たる我もまた
因と縁を解脱した基の真実義は
それ自身が基より自生する明知であることを知る
内外の観点、推論、否定による錯誤なく
失念の闇に汚されない
それゆえ自らの(基の)顕れは錯誤に汚されない
(我は)自証知に住したまま
三界が崩壊しようと動揺せず
五欲への執着なく
妄分別を離れた識が自生しても
浮き上がる色もなく五毒もない
明知の明晰性は停滞なく
一なる自性に五智が現前する
その五智が熟すれば
五方位の原初仏が生まれる
さらに智が弥増せば
寂静仏四十二尊が生じる
五智の力能が発せられれば
忿怒仏六十尊が生じる
それゆえ基たる明知には迷乱なし
我は原初仏なり
願わくば我が誓願が発せられることで
三界輪廻の有情が
自生する明知を証悟して
大いなる智が弥増さんことを!
我が化身は間断なく
想像を絶する無数の方法で化現し
教化すべき有情に応じた姿で示さん
願わくば我が悲心の誓願により
三界輪廻の有情一切が
六道から脱せられんことを!
原初より迷乱ある諸々の有情は
基から明知が発しないゆえ
失念して愚鈍になる
それが無明に迷乱する因
そこで突然に意識を失い
動揺と恐怖が無秩序に生じる
そこから自と(他の妄分別が生じ)他を敵だと把握しだす
習気が益々増長し
輪廻の慣習へと進行しだす
煩悩五毒はここから増大する
五毒の業に間断なきゆえ
有情の迷乱した基とは
失念の無明なり
願わくば仏たる我が誓願により
一切(有情)が明知を自覚せんことを!
(先天的な)倶生無明とは
識を憶念せず散漫になること
(後天的な)妄分別無明とは
自と他に分けて把握すること
倶生・妄分別の二無明こそ
一切有情の迷乱の基なり
願わくば仏たる我が誓願により
輪廻の一切有情の
失念と混濁という闇が目覚め
(主客)二つを把握する識が清浄になり
明知を赤裸々に悟得せんことを!
(主客)二つを把握する心(二元論的な執着の心)とは、疑念なり
微細な取著がひとたび形成されると
習気は深まり益々増長す
食、財産、衣、土地、友人
五感が喜ぶ欲、愛する関係といった
心が喜び愛着するものは何であれ苦悩する
これらは世俗の迷乱なり
所取・能取(把握される対象と把握する主体)の業は尽きることなく
その取著の果が熟す時
渇望と欲に苦悩する餓鬼として
転生し飢え渇くは悲惨なる哉
願わくば仏たる我が誓願により
欲望に取著する諸々の有情が
欲からくる苦悩を棄て去らず
欲への取著も受け入れず
識を(なにもせず)自身の力で解き放ち
明知を自身の力で保つことで
妙観察智を獲得せんことを!
外境の顕れに対して
恐れをなす識が微細に生じると
(そこから)嫌悪の習気は益々増長し
敵として把握したものを叩き殺そうと敵意が生じる
瞋恚(攻撃性)の果が熟した時
地獄の(生を受けて)煮られ焼かれるは苦しき哉
願わくば仏たる我が誓願により
六道の有情一切の
激しい瞋恚が生じた時
取捨選択をせず自身の力で解き放ち
明知を自身の力で保つことで
大円鏡智を獲得せんことを!
己の心が高慢となれば
他への競争心や軽蔑心
慢心が激しく生じ
自と他で争う苦悩を味わう
その業が熟した時
(死への)移行で落下(の恐怖)を味わう天人へと転生する
願わくば仏たる我が誓願により
慢心が生じた諸々の有情が
その時に識を自身の力で解き放ち
明知を自身の力で保つことで
平等性智を獲得せんことを!
(主客)二つの把握が習気として益々増長し
自らを称賛し他を軽蔑する不快さにより
闘争・競争の心が増長し
命を奪いあう阿修羅の地へと転生し
果として地獄の地に堕ちる
願わくば仏たる我が誓願により
競争心・闘争が生じた諸々(の有情)が
敵と把握することなしに自身の力で解き放ち
識を自身の力で保つことで
成所作智を獲得せんことを!
憶念を失い、平静さを逸することで
昏沈し、心は曇り、忘却し
気絶と懈怠と痴(蒙昧さ)が働く
その果とは、寄る辺ない畜生の徘徊なり
願わくば仏たる我が誓願により
痴が広がる闇において
明瞭なる憶念の潤みが現出し
法界体性智を獲得せんことを!
三界の有情一切は
一切の基において仏たる我と同等でも
憶念を失すれば迷乱した基とならん
現在、目的もなく業を為すが
六道の業とは夢の錯覚の如し
我は原初仏なり
六道に化現しては教化するがゆえに
願わくば普賢仏の誓願により
有情一切が余さずに
法界にて仏陀とならんことを!
アー ホー!
今後は、力ある修行者がいればいつでも
迷乱を離れた明知を自ら明瞭に保ちつつ
この強力な誓願を唱えるならば
これを聴いた有情一切は
必ずや三生の内に仏陀と成らん
日食や月食の期間、あるいは
地震、地の鳴動が起きる間、あるいは
夏至、冬至、年越の時に
己れ自身を普賢仏として生起させ
これを一切の者に聴こえるよう唱えるべし
願わくば三界の有情一切が
彼の修行者の誓願によって
苦悩から徐々に解放され
竟には仏陀(の位)に達せんことを!
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