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コミュニティ通訳から考える移民社会—日本は住みたいと思える国なのか

武庫川女子大学/ NPO 法人多言語センター FACIL
吉富 志津代

Mnet2022年12月号の特集は<コミュニティ通訳から考える移民社会>です。noteでは、吉富志津代さんの総論記事を紹介します。本特集には他に、教育、医療、労働相談、DV被害者支援、災害支援というそれぞれの場面での経験、ラテンコミュニティ、クルドコミュニティでの経験を7人の通訳者が報告しています。本号の目次と購入方法についてはページ末尾のリンクをご覧ください。

はじめに―コミュニティ通訳―

 コミュニティ通訳とは、日本に暮らす日本語の理解の不十分な住民が直面する言葉やコミュニケーションの壁をなくすための通訳で、主に「生活上の対話」の場面で「必要な情報」を伝える役割とされ、具体的には、市町村などの役所、学校、医療機関、支援団体などで必要とされる。そして、その役割のほとんどを、草の根レベルの市民の善意に依存しているという現状がある。この特集であげられている事例からは、その活動現場でのコミュニティ通訳者への期待の大きさとは裏腹な悲痛な叫びが聞こえてくる。そもそも、その役割がどうして日本社会に必要なのか、その先にはどのような社会が待っているのか、その意義について、前提となる法令を示すことで、問題提起とともに整理して考えてみたい。

誰も排除されない社会―社会保障の対象として―

 そもそも、この国に居住する人々は、国籍や出自に関わらず、あらゆる社会保障制度の対象者であるべきだということを、それが日本の豊かさにつながることも含めて、多くの人が理解していないのではないか。まず、日本国憲法と日本が締結した条約及び確立された国際法規について、関連部分を以下に示しておきたい。

日本国憲法第25条(生存権、国の社会的使命)では、以下のように書かれている。

  1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

  2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 また、教育に関しては、憲法第26条(教育を受ける権利、教育の義務)に

  1. すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

  2. すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育はこれを無償とする。

とあり、ここに主語が「国民」とされていることにより、国籍の有無で人権に差異があるような印象を与えているのではないか。
 もっとも、内外人平等原則により、日本が外国人にも自国民と同じ待遇を与えることを国際的に約束したことは、周知が十分ではない。国際人権規約(社会権規約またはA規約)には、1979年批准しているものの、国内法の改正はない。この規約の締約国は、第9条で社会保険その他の社会保障について、第15条で文化的な生活に参加する権利について、すべての者の権利を認めるはずである。

 また、インドシナ難民の受入れが契機となって1981年批准した難民条約には、22条(公の教育)、23条(公的扶助)、24条(労働法制及び社会保障)で、「締約国は、合法的にその領域内に滞在する難民に対し、自国民に与える待遇と同一の待遇を与える」と規定している。さらに、1995年に批准した人種差別撤廃条約には、第5条で「経済的、社会的及び文化的権利、特に公衆の健康、医療、社会保障及び社会的サービスについての権利」について、「あらゆる形態の人種差別を禁止し及び撤廃すること並びに人種、皮膚の色又は民族的若しくは種族的出身による差別なしに、すべての者が法律の前に平等であるという権利を保障する」ことを約束しているのである。
 このような経緯と草の根レベルの運動により、文科省では「外国人の子女我が国の公立学校において義務教育をうけることを希望する場合には、すべて受け入れること」とし、学齢相当の外国人子女の保護者に対して就学案内を発給し、就学の機会を逸することのないようにしている。また、外国人児童・生徒が入学した場合には、授業料不徴収、教科書の無償給与、就学援助措置など、内外人平等の原則に立って、日本人と同様の取扱いを行うようになっている。しかし、まだ就学義務ではない。
 さらに、世界人権宣言(1948年12月10日国連総会採択)第26条では、

  1. すべての人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない。技術教育及び職業教育は、一般に利用できるものでなければならず、また、高等教育は、能力に応じ、すべての者に等しく開放されていなければならない。

  2. 教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国または人種的もしくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を促進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。

とされている。
 これらに照らし合わせてみたときに、すべての住民を社会保障制度の対象とし、これらの権利・義務を果たすための入り口となる言葉の壁は、取り除かなければならないはずである。以上のようなことを、日本に住む私たちが認識しなければ、コミュニティ通訳という役割の意義は見えてこないのではないかと思う。

双方向のコミュニケーションのツール

 以上のことを大前提として理解した上で、それではそのための、日本語の理解が不十分な住民と日本語が公用語である日本社会の住民との双方向のコミュニケーションを推進するために、どのようなことが求められるのかを考えなければならない。もちろん、日本語の習得について、公的機関がその十分な機会を提供するということやそれらの住民たち自身の努力は大前提であるが、母語以外の言語習得には長い時間を要することから、母語による情報を提供することは必須であり、そこに橋をかける役割として、コミュニティ通訳の存在は不可欠と言える。
 最近では、さまざまな通訳ソフトの開発により、有効活用できる機械的なツールも多くあること、また「やさしい日本語」という概念の広がりによって、コミュニケションの必要性が多くの住民に認識されさえすれば、それだけでもコミュニケーションは促進される。だからと言って、それらがコミュニティ通訳の代替であるわけではない。
 例えば、DV通訳や医療通訳、災害時などにおいて、正確で細やかな情報や意思確認は、地域社会の住民双方の「安心感」となる。災害時には、情報共有によって助け合えるメンバーが多ければ多いほど、被害を減らすこともできるし、迅速な復興につながる。日本に暮らす日本語以外の言語が母語である住民のすべての言語に対応するのはかなり困難であるが、伝えようとする気持ちと、通訳という専門技術を持つ貴重な人材への理解とそれに見合う対価と、前もって翻訳されている情報やアプリなどの有効利用によって、効果的なコミュニケーションを考えていくことで、この国が、暮らしやすい国として選ばれ成熟した民主的な社会へと近づいていくのである。

おわりに―コミュニケーションの促進の意義と日本社会

 筆者が代表を務めるNPO法人多言語センターFACILは、1995年の阪神・淡路大震災を契機に、社会の多言語環境促進のために、無償のボランティア活動と捉えられていた分野に対価をつけてソーシャルビジネスとして設立、活動を継続している。設立から23年で、社会の多言語化は少しずつ進み、コロナ関連の情報など大切な情報については、行政が情報を多言語で提供することも、ある程度めずらしくなくなってきている。それを必要とする当事者たちに届けるための連携に関してはまだまだ課題はあるが、時間をかけた小さな草の根の動きは、着実に社会を変えていくと確信している。
 また、コロナ禍の経験により、コロナ対策や給付金の申請などのプロセスで、社会福祉分野にも、外国ルーツの言葉の壁がある住民の存在が身近になった今、ますますコミュニティ通訳が求められることは明らかである。
 最近の日本は、ジェンダー指数も思いやり指数も世界の最下位で、歯止めのない円安、経済の停滞、閉塞感のある社会になっていることに危機感を持っている。自己責任や自助努力を好む文化がある日本の、「自己」とは、この社会に暮らすすべての人であり、当事者はすべての住民である。この国が、人間が暮らしたいと思える国になれるのかどうか。外国人のためではなく、この国に住む私たち自身が課題に気づき、この日本社会をこそ、私たち自身が連携して変えていかなければならないのではないか。そのためにもコミュニケーションの促進による住民同士のつながりを取り戻すことが求められ、コミュニティ通訳という役割の重要性をあらためて多くの住民たちが認識し、市民自身の意識と政策を変えていかなければならない。

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