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言語記号論的恋の行方 / 自作ショートショート

「哲君って、頭の中であんなこと考えてるんだ。」

高校の弁論大会が終わった後、学年で1番美人と評判だった細野千春が僕の所へ来て言った。

「ロマンチックだわ。」

細く白い首筋にかかる髪の光沢のまばゆさ以上に輝くその魅惑的な赤い唇から、思いもしなかったつぶやきにも似た賛辞を聞いた時、まだ童貞だった16歳の僕の心臓は、口から飛び出んばかりに収縮を繰り返した。

「あっ、まあなんとなく考えたから。」

精一杯クールさを装ってつぶやくのがせいぜいだった。高校1年の冬のことだった。

全国模試でも、常に国語は全国で10番以内にいたためか、校内の弁論大会への出場を当然のように指名された。僕は出たくなかったのだけど。

弁論大会といえばみんな偽善めいた社会批判とか、弱者の保護の主張とか、どうせそういうことしか言わない。僕は成人式にNHKがやっていた青年の主張とか、読書感想文発表コンクールとかを見ると鳥肌がたつほど気持ち悪くなるタイプだった。童貞だったけどひねくれていたのだ。
偽善めいたお涙頂戴弁論や、世間の正義を代表しているかのような、むずがゆさを伴う熱い主張は絶対したくなかった。

・・・どーせあんな奴ら、あんなこと言ってて偽善家めと指摘されたら血相変えて口から泡を飛ばす豚だろう。おれも同類にされたらいやだな、

などと考えた僕は、「我がくそは臭くない」というタイトルでナルチシズム批判を行おうとしたが、汚くて皮肉に満ちすぎているという理由で、担任の国語教師に却下された。

仕方ねえな、もう少しソフト路線でいくか。

そこで、与謝野晶子の「初恋」にリンゴが出てくるが、そこから赤緑色盲の人にはリンゴの赤い実と葉っぱ色の違いはわからないだろうと想像し、もし同じ赤いリンゴをみていて、赤いリンゴという共通認識がったとしても、それぞれが本当に同じものを、同じように見ているかどうかは、絶対にわからないと想像し、そこからさらに見えている色を規定しているのは赤いとか緑とかいう言葉だが、実体としての色を示しているわけではなく、しかし実態を示さないから言語として流通できるのだと考えたことを、滔々(とうとう)と述べたのだ。

いわゆる言語記号論なのだが、当時はそんな言葉は知らない。自前で思いついたのである。「ヴィトゲンシュタイン」という学者が既に体系化していたのを知ったのは大学に入ってからだった。

時と場所が違えば僕だって20世紀を代表する知の巨人になれたのだろうか。しかしそんなことはどうでもいい。

細野千春は、それから何度も僕に近づいてきては話をしてきた。16歳の輝いた肌。既に発育した胸、くびれた腰。ブルマー姿で近寄ってきたときは、それだけで勃起しそうになるくらいの童貞男子の僕にはまぶしすぎた。一緒に下校するようになり、周りの男子のうらやむような冷やかしに照れながらも、僕の心は舞い上がった。アメリカのカレッジチャートのこと、大学のこと、政治のこと、いろんな話をした日々。あまく切ない春の香りに満ちているような毎日だった。

しかし、それも一瞬だった。

ある日、普段は誰も入ることのない古い史料をおさめた資料室に、僕は仲良くしていた世界史の石田に頼まれて古地図の資料を取りに行った。

石田はさえない世界史の教師だった。ピテカントロプスの想像写真にそっくりの顔。いつもジャージを履いていて、なぜか金玉の所が異様に膨らんでいて、みんなからはピテカンタヌキと呼ばれていた。でも、異常に世界史には詳しくしかも僕が寝ていても授業中何も言わない気のいい先生でもあったので、僕は授業以外で時々世界史談議をしに職員室を訪れて仲良くなっていたのだ。

その石田からの頼みに応えて古い史料室に足を踏み入れて古地図を探し、帰ろうとしたその時、角になった奥まったデスクスペースで、ただならぬ気配を感じ、僕は息をひそめ近寄った。そして息をのんだ。

あの、細野千春が木の大きなデスクに寝そべっており、胸をあらわにしてスカートの奥に男から手を入れられ顔を赤らめていた。その男は英語教師の高橋だった。奥さんもいる30代の爽やかでさっぱりとした授業で生徒たちから好感をもたれている教師だった。

その高橋に制服のスカートの裾から片手を入れられ、はだけた胸の片方をもまれ恍惚としている細野千春の、秘密めいた紅潮した顔と、うるんだ瞳と小さな喘ぎ声。性を生で見る興奮と同時に襲う失望とやるせなさ。

言語論が生んだ恋は僕から言語をうばって、そして終わってしまった。

残骸は童貞少年の悲しい慰みのティッシュの中の残留物となり、しかしその光景を僕は胸にしまった。

それから、天使のような細野千春が話しかけてきても、相変わらずぶっきらぼうに応える僕の脳裏には、いつもあの時の女しか見えなかった。

外から見えているものは、その見ている人に見える分しか見えないものだと知った。もうすぐ高校2年になろうとする春が訪れる季節になっていた。


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