見出し画像

小説を書くときの想像力について

僕は普段小説を書いている。小説を書きあげるとしばらく休むということはあるけれど、いったん書き始めたら体調が悪かったりしない限りは毎日書くようにしている。

僕は文学賞を貰ったことはないし、原稿料というものを貰ったこともない。いわばアマチュアなわけだが、それでも小説を書いているということを話すと、よく「想像力が豊かなんですね」と感心するように言われることがある。誉めそやすと言ってもいいかもしれない。

オリジナルの小説はもちろん、二次創作であっても小説のストーリーは書き手が考えたものだ。その意味で想像力は必要だし、上のような発言も理解できる。ただ、この「想像力」とやらは思ったよりも厄介で、様々なバリュエーションを持っているなと思っている。

想像力のバリュエーション

おそらく、小説を書かない人は、小説を書く人の想像力を過大評価している節があると思う。

あくまでも僕の場合の話になるのだが、実はあまり小説のストーリーを考えたことがない。一部のショートショートを除けば、小説を書き始めるのは「小説のストーリーができていることに気が付いている」という場合しかない。

これでは分からないと思うので、以下に例を示す。

僕が小説のストーリーを得る(得るという言い方がもっとも適切だと思う)のは、自分の書いたものではない小説を読んでいるときが多い。例えば、冒頭でAとBという人物が、その場にいないCという人物について話をしている。

このような場面で僕はCという人物について想像を始める。もちろんこれはなにも僕だけではないだろう。Cという人物がイケメンであるという設定なら、それぞれ好みの俳優を思い描くだろうし、眼鏡をかけているという設定なら、身近にいる眼鏡をかけている人を思い描いたりする。

ただ、僕の場合はもうちょっと詳細にCという人物について考えてみるのだ。Cという人物はどんな人なのか。年齢はどのくらいなのか。職業はなんなのか。容姿はどんな姿なのか。趣味はなんなのか。癖はあるのか。映像化するとしたら配役は誰になるのか。そういった特徴を一つ一つ当てはめていこうとする。小説内では必ずしも明かされない項目もあり、その姿は僕の想像によって大部分が補われていたりする。

次に、AとBとCの関係はどのようなものなのかを考えていたりする。AとBはこの後Cに会いに行くのか。それはどのようなシチュエーションなのか。昼なのか夜なのか。職場(学校)なのか、街中なのか。それは約束されたものなのか、偶然なのか。AとBの両方ではなく、その片方だけではないのか。

これは僕の場合には、なにも特別なことではない。頭の中でその人物の特徴やその後のシーンが自動再生されるイメージだ。僕の頭の中で自動的に選択肢が選ばれ、僕のイメージする姿のCという人物が、AとBに対面する場面が始まる。そして、その後どんな会話が交わされるのか、3人(2人かもしれないが)が会ってどうなるのかというところまで発展することもある。大抵は、録画残量がなくなったときのように唐突に終わりを告げるのだが。

時として僕は小説を読むのを中断して、その想像にふけったりもする。これは僕が小説に比べて映画やドラマを苦手に想っている理由でもある。もちろん、僕の思い描いた人物像やストーリーは目の前の小説からはかけ離れたものだ。実際にはちゃらんぽらんとした人物を真面目だと思っていたなんてことはざらだし、ストーリーはもっと派手に進行していくことが多い。

だが、それでも僕の頭の中で始まったストーリーが消えてなくなってしまうということはない。自動再生は具体的な文章で始まる場合と、イメージ映像で始まる時があるのだけれど、そのどちらにしても大まかな内容を覚えている。いわば僕は小説を読むたびにそのストーリーを集めているのだ。僕は目の前の物語の登場人物の名前はすぐに忘れてしまうものの、このストーリーに関してははっきりと覚えていることができる。

そうやって長短様々の断片が頭の中に集まると、あるとき突然その断片が繋がるときがある。あるいは繋がる可能性があることがわかる。具体的にいうと第一章と第二章というときもあるし、第三章と第六章というときもある。僕がやる必要があることと言えば、続きに当てはまる断片と間に当てはまる断片を探すことだけだ。

実は大変な断片探し

僕が小説を書くうえで大変だなと感じているのはこの断片探しだ。イメージとしては、真っ白なパズルのピースをひとつひとつはまるか確認していく感覚に近い。ただ大変なのは、必ずしもぴったりとはまるピースを持っていないことがある、ということだ。残りの断片はいくつかあるけれど、ぴったりとはまらない。そういう場合、僕はどのストーリーが一番整合性が取れるかということを考えている。どうしても無理な場合は自分で考えるが、そうすると先の展開が変わってしまったりするのだ。

つまり、第三章と第六章があって、第一章と第二章の断片を見つけたとする。この時点で、第四章と第五章、第七章以後(があれば)が空欄になっているわけだ。だが、第四章と第五章を考えると、その二つに繋がる新たな第六章が出てきたりするのである。

これが本当に厄介だ。だって僕は元の第三章と第六章を気に入って小説に手を付け始めたわけなのだから。新しく思いついた章を採用すればいいじゃないか、と思うかもしれないが、僕の場合は頭の中にストックされていた断片のほうが出来がいいのだ。僕の能力の問題でもあるが、いまはこのストックを大切にしたいとも思っている。

そうすると、新たにストックを探し始めたり(つまり読書)、なんとかピースがはまらないか試行錯誤してみたり、なんとかストックではない自分の力で繋げられないかあがいてみたりする。この作業にもっとも時間を取られる。長編の場合には、繋がらない箇所が複数あったりして投げ出したくもなったりする。

断片を探す旅

上に「僕が小説のストーリーを得る(得るという言い方がもっとも適切だと思う)のは、自分の書いたものではない小説を読んでいるときが多い。」と書いたが、もちろんそうでない場合もある。ドラマを観ているとき、バラエティー番組を観ているとき、誰かの話を聞いているとき、Twitterを見ているとき。頭の中で自動再生が始まる瞬間は無数にある。

ただ、それらの映像は僕の知っている風景や人物、デザインでしか再生されない。行ったことのない国、知らない文化や宗教、馴染みのない建築様式には限界がある。

その意味で自分の知らないものを吸収するのは大切なことだと思っている。僕の場合には知らないものを見て、いきなりそこから自動再生が始まることはない。だが、ふと始まる自動再生に、最近知ったことが含まれていることは多々ある。

僕の想像力とは記憶であり、僕の読んだ本や見たものの集合体なのだ。僕の想像力が豊かだとしたら、僕の記憶力が豊かだということだと言い換えられると思っている。

サポートしていただけると、とても喜びます。とても喜んだあと本を買いたいと思います。