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自己表現とアイデンティティ

 僕はここ一年でアウトプットを意識するようになりました。アウトプットというのは「自分の中にある内在的な情報、あるいはそれに準ずる何かを自己の外側、すなわち外界からアクセス可能な状態にすること」です。このアウトプットを非画一的に行うことが自己表現です。何だか難しそうな言い回しになってしまいましたね。簡単には「自分にしかできない方法で自分の持っているモノを他人に伝えること」とでも言えるでしょう。

 非画一的、というのがキモです。つまり、マークシート式の試験で答案用紙にマークすることはアウトプットではあれど、自己表現ではない、ということです。マークシートの塗り方に差異はあれど、その読み取られ方は画一的だからです。つまり「一種のあいまいさ」が自己表現には必要です。

 さて、自己表現の方法はいくつかあります。文章や話し、歌、絵画、音楽など。自己表現の方法には文化的、または芸術的なモノが多いように感じます。ちょっと特殊なところでは研究なんかもその一環であるといえます。もっとも、こちらの方法で自己表現をするのは他の方法に比べて難しいですが。なぜなら研究成果は「あいまいさ」を極限まで排した体裁である論文として発表されるからです。あいまいさが失われるほどに、自分を出すためのゆとりが失われます。だからゆとりの多い文化・芸能系の技術が多く挙げられるのでしょう。

 僕は歌が上手くありません。といっても真面目に歌の練習をしたり、指導を受けたりしたことがないのでそれは当たり前と言えば当たり前なのですが。同様の理由で絵も大して上手くありませんし、楽器も弾けません。
 文章はある程度書けますが、これは学校で学んできたからです。つまり画一的な文章なら書けますが、非画一的な文章かというと、自信はありません。

 ここで矛盾に気がつきます。誰かや、あるいは本でもいいでしょう。そういった「教師」に教えてもらわないと自己表現の技術は向上しません。独学といっても、必ずお手本があるはずです。その一方で、誰かに教えてもらうと自分らしさが薄れ、つまるところ、画一的な技術を身につけてしまうのです。

 武道や芸事の言葉に「守破離」という言葉があります。「はじめは師匠の教えを守り、徐々にその教えを破り、最後には師匠の教えから離れ、自分独自の道を切り開く」という意味の言葉です。ところが、この中でも特に「破」が難しい。僕自身はこれまで「破」に至ったことは無いのではないかと思います。
 だから僕は自己表現の手段を持っていないのだと思います。「守破離」の「破」に到達することが、きっと自己表現のスタートラインなのでしょう。

 ところで自己表現の必要条件である非画一的というのは、要するに「自分は他の誰とも違う存在なんだぞ!」と声を上げることです。「自分は他の誰とも違う存在だ!」と認めることを心理学ではアイデンティティの確立といいます。
 一方で、アイデンティティが確立できずにもがいている時期を心理的モラトリアムといいます。余談ですが、モラトリアムとは元々経済学の言葉で、それが心理学の方に輸入されたため、語頭に心理的とつけます。
 誤解されやすいのですが、アイデンティティの確立の問題は青少年期特有のものではありません。最初期はそのように考えられていたのですが、その後の比較的早い段階で「アイデンティティは拡散(アイデンティティが失われること)と確立を繰り返し、アイデンティティの確立は一生を通しての課題である」と認識が改められました。

 こう考えると「自己表現の手段を持っている人はアイデンティティを確立しやすいのではないか」という仮説が浮上します。対偶をとって「アイデンティティを確立しにくい人は自己表現の手段を持っていないのではないか」と言い換えることもできます。こう考えると音楽や美術の授業の必要性の新たな側面を見出せるかも知れません。

 さて、あなたの自己表現の手段は何ですか?

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