好きなこと——浸透圧とその前身

 思い返してみると、小さい頃から——といっても多分中学か小学校高学年くらいからだが——目で見てわからないほどゆっくりと進行していく物理現象が好きだった。

 最初に好きになったのは、水の流れによって生じる砂の浸食・堆積作用だった。おそらく理科の授業で習ったのだと思うのだが、河川の曲線部では外側が遠心力で大きく削られて深くなり逆に内側は砂が溜まるので浅くなるのだとか、さらにその外側には流れの力が及ばず運搬されない砂礫が残って堤防ができるのだとか、そういう現象になぜか惹かれるところがあった。よく家の裏のせいぜい2メートル四方程度しかない庭で軽い砂山を作り、その上からホースで水を流していた。適当に手がかりを作って蛇行させ待っていると、確かに少しずつカーブの外側が抉れていく、そのことがやけに嬉しかった。ミニ堤防もできたしミニ三角州もできた。その泥水は流れ出して駐車場を汚すことになったのだが、コンクリートの上にも運搬と堆積の力によって地形が作られていくことはぼくを喜ばせた。

 次に好きになったのは、蒸発だった。目の前にある水が実は少しずつ空気中に散っていっているという事実がなぜか好ましく感じられた。冬場になると乾燥を防ぐため部屋に洗濯物やタオルをかけ、どのくらい乾いたかをしょっちゅう点検して角度を調整し、部屋を潤す見えない水分子のことを思って楽しい気持ちになった。床にこぼした水をなぜ拭かないのかと問い詰められて自然に蒸発させたいからと答えたのはもちろん半分は苦しい言い逃れだったが、半分は本気だった。フライパンを洗った後はあえて水を多めに残し火にかけて乾かしたが、ガスの無駄遣いを問いただされたときにも同じようなことを思っていた。夏や正月に祖父母の家に行くとそこでは洗った食器を布巾で拭いてしまうのが習慣になっていたが、立てかけて置いておけばゆっくりと乾いていくのに拭き取ってしまうのは、なんだか勿体ないことをしているような気がした。

 そうして最近新たに好きになったのが、浸透圧(正確には浸透圧の差による水分の移動)だ。魚にはまり、調理法を調べていくにつれ、料理というのはつまるところ浸透圧なのだ、ということがわかってきた(もっとも誰かがはっきりそう明言したわけではない。しかしこれまでぼくが得た情報を総合するに、そういうことになるのではないだろうか?)。魚の身やあらに塩を振り、浮いてきた水気を除去することによって臭みを取るというのは、勉強し始めると最初に覚える処理の一つである。逆に野菜を水にさらせば水分が入って食感が戻る。干物も漬物も締め物も全て浸透圧を利用した調理法だ。それどころかプロの料理人は、名前のついた調理法とは別のところで水分の出し入れを繊細に調節することによって、その時々の素材から最良の味を引き出すのだという。

 初めてしめ鯖をつくるため鯖の身を塩で覆ったとき、初めて干物をするためホッケを5パーセントの食塩水につけたとき、バットの隅に溜まって行くドリップを見て、半透膜を通過して塩水に抜けていく水分を想像して、例によってぼくは嬉しくて仕方がなかった。そもそも振り塩と立て塩、身に直接塩をするため水が抜けやすく旨味が溶け出しにくい振り塩と、食塩水につけるため塩が均一に行き渡り水分が急速に抜けていかない立て塩というこの区別の、なんと繊細なことか! そうしてぼくは今日も水分を抜くべき食材はないかと半ば中毒的に考えを巡らすのだが、そこで密かにゆっくりと進行するプロセスが、床にできた水たまりや駐車場を汚す小川と違って多少なりとも価値のあるものに帰結することは(といってもそれは自分かせいぜい弟の舌を喜ばすだけなのだけれど)、かすかに意外な感じをぼくに与える。

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