魚にはまっている—祖母のこと


 魚にはまっている。異常なほど魚にはまっている。近所のスーパ二軒の鮮魚コーナーを日々チェックし、知らない魚がいれば即座に調べ、旬や分類や主な調理法を暗記し、大抵一匹は購入し、持ち帰ってせっせと捌いている。深夜には魚のさばき方動画や調理動画を見て、翌日以降スーパーにどんな魚が現れても反応できるように知識を蓄えている。

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 最初に丸で買ったのは今年の十月十二日で(この文章を書き始めたのは二〇二〇年末、そこから時間をおいて後半を書き継いだため本来なら「昨年」とすべきだが、当時の魚への初々しい感じを残しておきたいのでそのままにしておく)、鯖だった(頭も内臓もついた状態の魚は丸と呼ばれ、これはマル↑↓と発音するらしい!)。その一週間ほど前から「日本さばけるプロジェクト」(入門にオススメ!)による各魚種のさばき方を教科書的に解説する動画を見続けており、ついに欲求が抑えきれなくなって鮮魚自慢であることだけは知っていたスーパーに行ってみると、思っていたよりもたくさん丸のままの魚があり、しかも想像よりはるかに安い。そのなかで賞味期限切れで割引のシールが貼られた鯖をたしか三百円くらいで買って帰ったのだった。
 ぼくはもともと魚を食べつけていたわけでもないし、魚介が格別好きだったわけでもない。埼玉で育ち、母は岐阜出身、日本では少数派の海無し県に縁が深く、釣りの経験などもちろんなし、煮付けや焼き物はなんとなくパサパサしたものが多いという印象、アジとイワシを並べられて区別がつくかと言われればはて……(多分無理だっただろう……)という感じで暮らしてきた。

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 そんなぼくがなぜ突発的に魚に熱狂し始めたか、自分のなかで少なくともその直接的な経緯は結構はっきりしている。今年の八月七日、広島県福山市に暮らす父方の祖母が亡くなった(近親者で唯一の海有り県在住者!)のだが、ぼくは七月末に介助の手伝いで一週間ほど、さらに葬式のあと一ヶ月近く祖父母宅に滞在し、連日料理をすることになった。祖母に料理を教わっておきたいと思っていたぼくは、いまを逃すと後はないかもしれないという切迫をそれなりに感じたりもして、結果的に本当に最後となったこの機会を利用したのだった。祖母は体に色々な不具合を抱えつつも亡くなる直前まで意識ははっきりしていたから、七月末の一週間、何かしら記憶に残る料理を思い浮かべ食材を買って帰ると、ある時はベッドの上から、ある時には台所に立って指導してくれた。葬式の後もしばらくの間なんとなくその続きのような気持ちで、弟と一緒に、残された祖父に食事を作っていた。
 料理は必要な範囲でしてきたぼくにとってこの状況が普段と違ったのは、自宅にいるときほど費用を気にしなくて済むことにも増して、やはり祖母の記憶が後押ししてくれることで、自分ではあんなものは作れないだろうという無意識のリミッターが外れていくことが大きかっただろうか。だいたいこういうことは、検索すればそれなりの情報が手に入るのだろうとわかりつつ、ちょっとした偶然の思い込みやら何やらで大した理由もなく選択肢から外し、手をつけずにいるものだ。
 なかでも揚げ物を習得したことは大きかった。フライといえばアジだろう(というくらいの感覚はあったわけだ)、と作ったアジフライがうまくできたことは幸運だった(粉をまぶす前にふった胡椒の味がなぜか妙に印象に残っている)。しかし二度目に挑戦したときには三枚におろされていないアジしかなく、慌てて骨の取り方を調べるも、無残に身がボロボロになってしまった。これですぐに魚捌き願望が芽生えたわけではなかったが、振り返ってみるとどうやらこれがきっかけの一つではあった。
 瀬戸内海にはテンジクダイという小さい魚がおり、福山ではネブトと呼ばれる(地域によって様々な呼び名があるらしく、正式名称はむしろ後から知った)。ネブトの南蛮漬けはぼくがはっきりそれと意識する唯一の福山郷土料理で、頭・内蔵の取り方から漬け方までを教われたことは本当に良かったと思うのだが、祖父母宅でしか食べることのないこの魚を自分の手で買ったことは、食材には産地があるという当たり前の事実をぼくに実感させた。地方に住む親戚の家への行き帰りでは、目的地が明確なので意外とその周辺や道中に何があるかを知らないままになりがちだが、考えてみれば、ここはかの<瀬戸内>なのだ。

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 余談になるが、ぼくはこの後友人の勧めで埼玉を舞台にする『アフロ田中』と、『神戸在住』を相次いで読み(どちらも途中だが。ついでに神戸にも行った)、いずれも楽しんだが、ああ、自分の出所は圧倒的に『アフロ』だなあ、とつくづく思ったのだった。のっぺりしたベッドタウン、場所ごとの色や文化がなく、「花咲」という土地名だけであそこね! と盛り上がるあの感じ。「深谷ねぎ」という「地元の特産品」のテーマパーク感。そういうところで育ったぼくのような人間にとって、地方の色のようなものを等身大で実感するのは、なんだかひどく難しいことのような気がする。だからこそ福山に瀬戸内海があると感じることが、妙に強い印象を残したのだろうか。
 このことが、多分もう一つの経験と重なった。祖母は俳人で、生前俳句を始めるよう事あるごとに勧めてくれたが、興味は持ちながら結局亡くなる直前までぼくが句作をすることはなかった(祖母はせっかく東京大学にいるならと有馬朗人氏の名前をよく挙げていたが、有馬氏も先達て亡くなってしまった)。ぼくはその代わりに、というのもおかしいが、祖母が亡くなったら作品を最初から順に読んでみよう、それが文学者である自分なりの祖母の弔い方だろうと思っていた。祖母の句歴は病気を患って仕事を辞めてからの三十余年で、句集は出版せずじまいだったが、自作を七冊のノートにまとめていた。そのノートを、ぼくが生まれる以前の日付と共に「1」と記されたものから順に読み始めたのだ。
 始めてすぐわかったのは、それが予想よりもはるかに難しい作業だということだった。祖母の流麗な崩し字が見慣れないというのもある(ただの平仮名が、見慣れない自分には信じられないような形に崩される……)。けれど何より季語や俳句特有の言い回しが全くわからず、見当がつけられないことが問題だった。ぼくは祖母が「結局これが一番便利だ」と言いながら開いていた電子辞書をノートの横におき、手書き検索機能を使ってある漢字ない漢字手当たり次第当てずっぽうで入力しながら、解読を試みた。まさに暗中模索、暗号を解くような気持ちで読み進めていった。
 ページの右端に日付が記してあり、だいたいひと月二回(句会が月二回だったということだろう)のペースで作品がまとめてある。のちに知ったのだが、句集でも作られた順で、大まかな時期と共に並べられることが多いようだ。おそらくまだ五十代も半ばだった祖母の一月一月、一年一年が、ゆっくりと過ぎていく——。季節を二度三度とめぐっていくうち、ぼくは毎年繰り返し使われる言葉たちを記憶したいと思うようになり、別の紙に書き留めていった。鳰はかいつぶり、鵙はもず。神が旅立ったり帰ってきたりするのは冬、亀が鳴くのは春で地虫が鳴くのは秋……。
 そうして書き留めた季語の中にあった魚の名前が実物の調理への興味を掻き立てた、と言えれば話は早いが(というかほぼそういう風に記憶してさえいたのだが)、実際にはそういうわけでもないようだ。見返してみると祖母が特段魚を熱心に詠んでいた形跡はなく、動物といえば鳥、食材といえば野菜(大根引いて、洗って、下ろして、干して!)が中心。そもそも季語の中で魚の重要度はさほど高くないようにも見え、少し珍しい魚になると歳時記に入っていないことも多いし、よく食べられている魚に意外と作例がないということもままある(代表的なのはいまや魚の王様なのに実はかなり最近まで下魚だったマグロ)。
 祖母が三十数回の春夏秋冬を通過しながら作った俳句をひと月かけて解読する経験が、ぼくの底に沈殿させていくようにしてもたらしたのは、季節や土地の個別性が、等身大で日常的な時間の中で把握されるという感覚そのものだったと思う。もちろん埼玉でも夏は暑かった。冬は寒かった。けれどもそれが気温以上の質感を生むことがいまいち腑に落ちない。土地ともなればなおさらだ。場所が独自の色合いを持つことが分からず、場所A、場所Bという記号的な違いか、さもなくばディズニーランドかUSJかというのと大差ない地域感。旅に病んで——芭蕉以来俳人は旅人であり、実際祖母も信じられないくらい頻繁に吟行で遠出していたことを知った。けれど俳句となったその経験を三十数年の時間に沿ってなぞっていくと、浮かび上がってきたのは場所や時期の特殊性を生活的に経験することがあり得るという感覚だったのだ。
 それにしても、季語などというあからさまに人工的なシステムが自然物への手触りを与えてくれるなんておかしな話だが、考えてみれば言葉というのはそういうものだという気もする。俳句は季語の制約といい、切り詰めた文字数といい、言語がそもそも作り物であることに力強く居直っているようなところがあって、そこがぼくには好ましく感じられた。発表用に厳選された各月の十句ではなくノートを読んだのもよかったのだろう。祖母曰く「俳句は人生のアルバムだ」そうだが(祖母が教えていた同人の方から聞いた)、実際素人目に見てさほど力の入っていない句も混じっており、そこには奇跡のような知覚から張り詰めた力作が生み出される特別な瞬間とともに、見たこと聞いたことを自らの言葉で咀嚼することによって自分の日常的な時間に組み入れていく作業が刻まれていた。(またもや余談だが、この経験は、長い間読むことは日常でも書くことは特別な機会がなければしないできた自分に、小説家でもエッセイストでもブロガーでも俳人でも、書くことを日常とする生活への興味と憧れを抱かせた。)
 それはともかく、このことと魚へのどハマりがどういう関係にあるのかと言えば、魚は解体されない状態で入手可能なので実物への興味を満たしやすく(肉だとそうはいかない)、天然物が多いので産地との関係が深く(これも肉だとそうはいかない)、この傾向は鮮度落ちが早いのでさらに強まる(野菜だとそうはいかない)。魚料理が求める知識や感性と、俳句を読むことを通じ人生二十九年目にして初めて会得のチャンスを迎えた季節や土地や自然物への実感に、多分に重なるところがあったのだと思う。さらにいえば、魚を捌く手の動かし方の習得とか、自分の舌で感じる味とかの身体的な快楽も、自分にとって新しい感覚を文字通り腑に落としていくことに合っていたのかもしれない。もちろん何かに「はまる」ときの常として、こうしたことを逐一頭で確認していたわけではない。昨年の七月以降自分の身に内から外から生じたことを振り返ってみて、こういうことだったのではないかと、思ってみているということだ。
 それにしても、こんな思いもかけない可能性が手の届くところにあったのならば、少しくらい祖母の勧めに応えておけばよかったのにと思う。そうすれば、きっと少なくない人が当たり前に覚えていくのだろう地域や季節との親密さがもたらす楽しみを自分も早く感じ取ることができたのかもしれないし、多少なりとも祖母を喜ばせることだってできたのだろうし。けれども同時にこうも思う。例えば五年前に祖母からノートを借りて読んだとして、同じことが起きただろうかと。祖母の崩し字の解読に勤しんだ夏のひと月と、(たぶん)それに端を発するこの半年の不思議な変化は、作品(あるいはある作家による作品群)を受け取ることと「死」との何か特別な関係を感じさせる。祖母が死んだあとだからこそ、祖母の生きる感覚を受け取ることができたのかもしれないという直感——。
 祖母とほぼ完全にすれ違うようにしてぼくは俳句の世界を覗き込んだが、七月の一週間、その滞在の最後に、ほんの少しだけ糊代ができた。自分の素人俳句はとても人に見せたいものではないけれど、一瞬でこれだけの添削をする祖母の力は誰かの目に入れておきたいとも思うから、記憶している祖母のアドバイスと共にいくつかここに記しておく。前二句が来島海峡、後一句は今治城にて、時間ができた日に一人車でしまなみ街道を渡り、作った。

 夏潮に逆らふ舟の足遅し
 →海峡の夏潮上る小舟かな
   *大から小へ

 海賊の足跡浮かぶ皐月波
      →著し(畳む)
  
 炎天の堀跳ねまわる海水魚
 →炎昼や濠に海水魚のしぶき
   *「跳ねまわる」様子を伝える句またぎ

俳句の教本のコピー(教えるときの資料として使っていたのだろう)の裏紙に残る自分のボールペンと祖母の鉛筆の筆跡をいまこうして写してみて、吊り橋を渡り四国の海沿いの街に及んだのだから当然といえば当然だが、ここにすでに海があり魚がいることに、すこし驚く。
 福山滞在の最後の数日、祖母は体調が上向かず元気が出ない様子で、一旦は添削してもらうことを諦めかけたのだが、帰り際に「そこに座りなさい」と言い、鉛筆を手に直してくれたのだった。

 涼風が橋の下より手招きす
 →差しかかる来島海峡夏怒涛

これはもはや全く別の句だ。並走車もなく一人吊橋の上を走りながら、誘い込まれるように海を覗き込んでひやっとした、そのささやかな死の予感を語るぼくの話に首を捻りながら、現実にはるかに死の近くにいた祖母は、生命と死が拮抗するような夏の力強い波を詠んだ。来島海峡は日本三大急潮の一つであり、産卵のため瀬戸内海に入ってきて急な流れにガス調節が間に合わず浮き上がってしまった鯛は、浮鯛と呼ばれ春の季語となっているのだという。激流で育ち身の引き締まった真鯛には、尾寄りの中骨に三連の瘤ができることがあるらしいことも、魚にはまってしばらく経ってから知った。

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