植物園で倒れ泣き崩れちゃっても

自己肯定するのがしんどい。

しかし自己肯定感が低いのもしんどい。そうかといって、そこで「自己肯定感」等のクエリでググったところで「自己肯定感を上げる方法5選」とかしか出てこない。あるいはキラキラカウンセラーのポジティブブログみたいなのが現れて、あまりのシャイニーさに目を潰されるのが関の山だ。ウワッと叫びながら画面を閉じるしかない。

自己を肯定するのは私にとってとてもつらい。自己肯定アレルギーと言ってもいい。自己を肯定しようとすると鳥肌が立ち蕁麻疹が出て動悸がしてくる。蕁麻疹はさすがに少し盛ったが、涙が出てしまうことなら実際よくある。張り裂けそうに胸が痛み息が苦しくなり、最悪の場合しばらく寝込む。
自分を雑に扱うほうが落ち着く、という表現をよく見かけるけれど、そんなマイルドなものではないような気がする。自己肯定に伴う苦痛が大きすぎて、そこから身を守ろうとした結果自分を雑に扱わざるをえなかった、というほうがより正確に事態を捉えているのではないか。自己肯定感低い勢ってだいたいみんなこんな感じなんじゃないのかなあと思ったけど、そうでもないのだろうか。他人のことはわからない。

というようなことをぐるぐる考えること幾星霜、ついにループを抜け出す回がやってきた。「一口に自己肯定といっても、いくつかの種類や系統に分けられるのではないか?」というアイデアが降ってきたのである。そしてそれらは例えば、①私がほとんど生まれつきできていたもの、②成長の過程である程度できるようになったもの、③できるときもあればまだぐらつくときもあるもの、そして④つらくてまだとてもできそうにないもの というようにレベル分けをすることができそうでもあった。
ゲームでいうところのスキルレベルのシステムが似ているかもしれない。キャラクター一人一人に設定されたレベルだけでなく、それぞれのキャラが持つスキルの一つ一つにも設定されたレベルがあり、同じレベルの同じキャラが同じスキルを使ったとしても、スキルレベルが違っていれば、もたらす効果の程度が違ってくるというようなものだ。育成の仕方(スキルポイントの振り分け方等)によって、いろいろなスキルをまんべんなく強くすることもできるだろうし、一つのスキルを集中的に早く成長させるのもありかもしれない。と喩えてみたけれど逆にわかりにくくなったかもしれない。
ともかくそんな感じのモデルを思いついたので、早速自分の自己肯定スキルを詳しく分析してみることにした。この解像度上昇にどの程度の意味があるのかはわからないが、もしかしたらそのうち何かいい対応策を思いつくヒントにならないとも限らない。たぶん。
なお項目は割と適当で、私が自分の中で何か関係ある気がすると感覚的に思ったことを拾って並べただけという感じだ。だから他の人から見たら、これ別に自己を肯定するのに関係ないのでは…とか、あれが抜けてる…とか、いや学術的に見てこれは違うのでは…とか言いたくなる内容もあるかもしれない。しかしこれは私が私のために勝手にやっている内面の整理なのでその辺はあえてふわっとさせている。ぶっちゃけ私の役に立てば何でもいいのだ。読者のみなさんは読者のみなさんで自分の役に立つようにアレンジして内面を分析したらいいと思う。もちろんする必要を感じない人はしなくていいと思う。みんな好きなように生きてほしい。


さて前置きが長くなったが、とりあえず前述の①〜④を枠として、そこに個々の項目を当てはめていってみようと思う。

①ほとんど生まれつきできていたもの
・今ある幸せを感じる
・自分の好きなものは好きだと認める、好みや趣味嗜好を肯定する

これだけはなぜか今までほとんど苦労したことがない。
今まで自分のことをただの自己肯定感スケキヨパーソンだと思っていたのに、いやたしかに平均値は頭から湖にめり込んでるかもしれないけれど、そうでもない得意分野のような部分があるということを今初めて知った…。しかも自分で挙げられるだけで2項目も。
振り返ってみるとたしかにこいつらだけは何かあってもぐらつくことがない。というか、昔から何なんだこの意味不明なハッピーはと不思議に思っていたがそれに今一つの答えが見つかったというか。なんせ私は双極の激鬱期(受診以前)とかも鬱は鬱なんだけど毎日ハッピーと思いながら暮らしていたので…。そのせいでまさか自分が鬱だとは思いもしなかった。病的な鬱感情とハッピーがひとつの脳の中に同居していて、そこには希死念慮さえ同居できるのだけど、なんというかハッピーは存在している次元?階層?がちょっと違うのだよな…。そんなんなので、例えば別に鬱ではない日に丸一日覚醒できなくてほとんど寝て過ごしたとしても今日はハッピーだったなあと思うし、早番から終電間際まで残業した日でも今日はハッピーだったなあと思う。なんかそれはそれで色々と麻痺してるんじゃないかというような気もするがまあまあまあ。
〈好きなものを好きだと認める〉というのもたぶん大丈夫だ。わりと趣味がおかしいらしいことになんとなく自覚はあるがそれでも好きなんだからいいだろと思っているし、反対に興味のないものに興味のない自分についても、確かに人の話についていけなくてよく困るけれども、まあそれも仕方ないかなと思っている。半分諦めていると言ってもいいかもしれない。自分のASD傾向(興味の幅が狭く世間の気になってるものがあまり気にならない)が分かってからはより一層そういう風に生まれついてしまったしなとの思いを深めている。
それと、うちの親は私の興味の向くもの向かないものについてどうこう言うことはなぜだかあまりなかった。一緒になって興味を持ってくれるということもなかったし、のめり込みすぎたパソコンは一時取り上げられたけれど。まあ勉強はとりあえずやっているしあとは自由にさせようというのがあったのかもしれない。進路選択についても高校に上がる段階では少し言われたが、それ以降は特に何も言われていない。後で聞いてみると「放っておいても勝手に探して決めるし、口出ししても一回決めたら頑固だし」といったような回答が得られた。放っておいても大丈夫だと思われているのは本当につらくかなしいことだが、まあ好きなものへのこだわりは周囲を黙らせるくらいもともと強いのかもしれない(ASDっぽい)。

話を戻すと、目玉を焼かれながら拾い読みしたシャイニングブログなんかには、たしかにしっかりした自己肯定感は滅多なことではぐらつかないとかそんなことが書いてあったような気がする。他の項目も、スキルレベルを上げていけばこの感覚に近いものがついてくるようになるのだろうか。
コマなし自転車に乗る練習の際、まずはペダルを漕がずに地面を蹴って、短い時間だけでも二輪だけでバランスをとって進む訓練から始めるといいと聞く。それと似たような感じで、まずは感覚を掴むという意味で既にできている部分を洗い出すのは有意義そうに見える。たぶん。そういうことにしとこう。

②成長の過程である程度できるようになったもの
・意識的に自分を甘やかす
・好きな格好をする
・好きな持ち物を持つ
・自分の生きる資格を認める

〈意識的に自分を甘やかす〉というのは、例えばあまり意味もなくプチ贅沢をしたり、いや意味のあるプチ贅沢でもいいのだけど(何かのご褒美のつもりで贅沢をする等)、とにかく何か自分のQOLが上がるようなことを積極的に行う、ぐらいの意味だ。生存に非必須であって、ただQOLを上昇させるためだけの行為。いい香りのものを買って部屋に置くとかがそれだ。いい香りを嗅がなくても別に死なないけれど、嗅いだら幸せじゃん?というその一点のみでお金を使うことを自分に許す。
この発想はかつての自分にはあまりなかった。家に(禁欲的というほどではないにせよ)享楽的な空気が少なくて、決して経済的なゆとりがないわけではないのに、生活の中に余白とでもいうべき部分があまりなかった。やるべきことと、やったほうがいいことと、やらないと死ぬくらいやりたいことしかやらない、とでもいうべきか。
どこかに連れて行ってくれるようなときも、親が行きたいとか、一緒になって楽しみ尽くすとかというよりは、私や弟のためになりそうだからというのが動機の第一であるというか。何も文化教育施設にしか連れて行かれなかったわけではないが、親の楽しみに付き合わされたような記憶はほとんどない。親というのはそういうものなのかもしれないし、逆に付き合わされた記憶しかないというのもひどい親だなあということになるのかもしれないが。まあとにかく、そのためにただただそういう発想を持ち合わせていなかった。
獲得したのはわりと最近で、成人していたのもあってかそれに対して親は特に何も言わない。それでも基本的には親の目を盗むように自己甘やかしをしてしまうし、調子が悪いとそれもできなくなったりする。できるときでも親の目の前でノンアルコール晩酌(仕事帰りにコンビニなどで好きなおつまみを買ってきて、それと一緒に炭酸水を飲む)などをするのは非常に居心地が悪いし、楽しみが半減する。

おそらくその元となっているのは、小さい頃に服装や持ち物について異常な感覚を植え付けられ、成長してそれに反する行動を取ろうとすると、(無理やりやめさせられるというほどではないが)よくない顔をされたことだろう。
異常な感覚というのは、かなり歪んだものから微妙な違和感にとどまるものまでさまざまだが、例を挙げると「物はいかにみすぼらしくなろうとも、壊れて修理不能になるまで(あるいは、摩耗・風化してこの世から消え去るまで)使うものだ」「高価なブランド物を持つのはバカのやることで、いかに持ち物にお金をかけないかが重要」「流行に乗るのはバカのやることで、著しく流行に遅れた服でも堂々と着ればおしゃれである、むしろその方がイケてるくらいだ」といったようなものだ。自分よりも物持ちのよくないその他大勢に対して、とにかく見下すような気持ちがにじみ出ていた。
この文章をもし親に読ませたとしたらそんなことは言っていないと言い張るかもしれないが、こちらが受け取ったメッセージとしてはこのくらいの内容だ。実際、車体が錆びきって端々が風化しかかり、漕ぐと異音もするような自転車に数十年乗り続けていたのを数年前やっと買い替えたぐらいだ(最近ようやく親の狂気が微妙に和らいだような気がしている)。
これらのメッセージに関して当時きつかったのは、直接的な親や自分のみすぼらしさよりも、うちの家は何かおかしいと折に触れて感じさせられたことだ。うっすらとしかし幾度となく。あの感覚は、同種の感覚を味わったことのある人にはわかることだと思うが、じわりじわりと染みていく遅効性の毒のようなものだ。
このおかしさは、度を越した倹約家や狂信的なエコロジストというのとも少し違っていた。もっとオリジナリティのあるオンリーワンの狂気というか。そういう層のような目的や思想が特にないからだろうか。
まあなんでもいいのだけど、そこからはなんとか脱出した。自分でなんとかしないとどうにもならない、と気づいて努力し、とりあえず常識的であってかつ自分の趣味を上手く取り入れ表現したような格好ができるようになった。いまだに張りぼてをまとっているような、あるいは第二言語で話しているかのような感覚はあるけれど、罪悪感は今はほとんどない。

ところで、服装や持ち物に関して最近取り掛かり始め、これからさらに進めていくべきは、もともと本当は好きだったものにかけていた封印を解いていくことだと思っている。普段着にしている地味な服装もちゃんと大好きなのだが、何を隠そう服だけで2〜3人殺せそうな攻撃力の高い服装もだ〜いすきなのである。なのでライブのときなんかは今後もバチバチにキメていく。

〈自分の生きる資格を認める〉は冗談抜きで服薬が全てを解決した。以上。いやマジで。私の希死念慮は半分は普通に双極だったんだろうなあと思う。残りの半分の話はまた後でするけど。とにかく真面目に何年か薬を飲み続けたら生きる資格がない系の死にたい発作が起こることはほぼなくなった。サラッと系とか書いたけどしにたみにもいくつか系統があるんだよ。服薬以前は複数系統がめちゃくちゃに絡まって団子になっていたのであまり自覚がなかったのだけど、今は薬で消せるやつは消えた、と思う。

①と②の間くらいの微妙な位置に、〈楽しいことをする〉という項目が置けるかもしれない。これはある程度は生まれつきできていたのだが、10代後半ぐらいに鬱で一回ほとんどできなくなり、その後徐々に回復して社会人になってから元以上にできるようになったという経緯を持つ。V字ならぬ√回復である。
いや、現実はもう少し複雑かもしれない。そこには、〈楽しそうなことをする〉が右肩上がりにできるようになっていっている、ということも含まれているからだ。やってみたことがなかったがやる機会を得たものや、今まで興味がなかったが興味を持ち始めたものなどについて、試しにやってみるということが以前は本当にできなかった。というよりは、やっぱりそういう発想が欠落していたという方が正しい。
さらにこれにはASD的な他人や世間への興味のなさや想像力のなさも一役買っていた。みんなやっていて楽しそうだから自分もやってみようという発想がそもそも持ちにくい。「みんな」がいくら楽しそうにその活動をしていても、「自分」が興味を持っていないかぎりは、その楽しさを生々しく想像することができないのだ。興味を持っていたとしても実は「みんな」の楽しい気持ちなんてこれっぽっちもわかっていなくて、ただ自分の興味に突き動かされているだけかもしれない。なんなら「みんな」は「自分」とは関係のない生き物だと思っていた。正しくは「自分」も「みんな」の一員なのだが…。
もう一つさらに、例えば、テレビで映画を観るのは面白かったが、じゃあ話題の映画を映画館に観に行ってみようかなというようなところまで話が繋がらないということもあった。時々、いやしばしば私はびっくりするほど頭の回転が鈍い。高校生になったくらいでようやくそこが繋がり、大学に入ってからしばらくしてやっとこさ映画館に行ったという思い出がある。「風立ちぬ」を観た。それにやっぱり話題の映画も映画館も、世の中にそういうものがあるということくらいはもちろん知っていたが、それは「みんな」が行くものであって、「自分」の人生とは関係ないと思っていた。北京で燃えるオーロラのように(「労働者M」)。
この「自分の人生と関係がない」感は、界隈で一時期話題になった「無意味オブジェクト」の概念とかなり似ている。日々通勤通学で通るような道でも、興味のないジャンルの店なんかは、頭の中で何もないのと同じように処理されてしまうというか。見えていないわけではないのだけれど、無意識に書き割りか張りぼてか何かのように見ている。この感覚をそっくりそのまま物事や活動に当てはめればいい。というかだいたい、そういう感覚は多かれ少なかれすべての人が持っているはずだ。世の中のあらゆる物事に全力の当事者意識を持っていてはとても正気では生きていられない。テレビのかなしいニュースを見て、大抵の人はおそらく胸を痛めつつもどこか他人事だと思っているのではないだろうか。たぶん。我々はそんな感じで無意味オブジェクトになってしまうものが平均より少し多いだけだ。

③できるときもあれば、まだぐらつくときもあるもの
・生きたいという欲を持つ
・自分を褒める、労る、頑張りを認める

少しずつ核心に近づいてきている。……だいぶ根本的なところがダメ。
〈生きたいという欲を持つ〉、ここのぐらつきがおそらく残り半分のしにたみの正体ですね。将来にわたって生き続けたい、生き残りたいという欲がめちゃくちゃ薄い。どんだけ生きがいのようなものを見つけても、いつ死んでも後悔しないという妙に強い気持ちが消えない。この妙に強い気持ちというのがあやしいのだということがだんだんわかってきた。
そして見え隠れするのが服薬によって鬱を抜けてからもなぜかぽつんと残った異様に根深い感じのする希死念慮。よくあるパターンとしては、割と気分的には調子がよくても、些細なきっかけで死にたくなってそのままずるずると鬱に移行する。まあこれも最近減った。よくあるパターン2としては、同じく気分的には調子がよく、かつ特にきっかけらしいきっかけがないのに死にたくなるというやつ。最近はこれが多い。ふっと思考に侵入してくるレベルのこともあれば、過集中してしまっているのか自殺しないでいるのに相当な努力を要するみたいなこともある。この欲求は純度100%のしにたみであって、別に苦痛を感じたいわけではないというかむしろひどい苦痛を感じるのは絶対嫌なので、結局それが唯一の安全装置として機能している。
繰り返すが気分的な落ち込みはない。憂鬱の極致としてのしにたみではなく、ただ貼り付けたように死の欲求だけがあるというか…。普通地続きであるはずの落ち込みは存在せず、つまり沈みきった瞬間のトランポリンのようにではなく、「冬眠」の詩のようにそこにある。
しかしこれはなんでなんだろう?あまり原因らしい原因は思い当たらない。よく街中とかでは語彙が貧困そうな大人が自分の子どもに向かって「いい加減にしなさい」等の代わりに「死ね」と言っているのを見かけたりするが、うちの親は別にああいう感じではない。強いて言うなら、私の面倒くさがり度合いが異常に高いことに対して「それだったらもう棺桶に入っておけば?」と言って非難するというのがお決まりになってはいたが、そのフレーズが開発された頃にはすでに私のしにたみは確立されていたのであまり関係ないと思う。もっと前のことなのだろうか?ポクポクしてみるがチ-ンとならない。今後の課題だ。

〈頑張りを認める〉というのもわりとダメだ。頑張りを認めようとするとウワ-と叫んで心のらくがき帳をビリ-ックシャクシャポイとやりたくなることが少なくない。日々わりと真面目っぽく生きているほうだけど、できていることといえば頑張ったなあと思わないで済むようなことばかりというか、やりたいこととやらないと破滅することぐらいしかやっていない。過集中で押し切るか圧に押されて仕方なくやるかのどっちかしかしていないというか。そんなんだから仕事しても仕事した気しないし、通しで残業しても残業した気がしないんだよね。私の心はニートそのもの。

④つらくてまだとてもできそうにないもの
・幸せになりたいと思う
・自分から幸せを掴むために行動する
・将来の前向きな目標を具体的に設定する
・自分のために努力する、投資する
・自分のことをかわいいと思う
・自分の価値を認める
・自分を大切に扱う
・大事に思ってくれている人がいると認める
・人の褒め言葉を素直に受け取る

なんというか、多い。そしてやっぱりいろいろと根本的なところがダメ。そこダメなんや…および、そこダメでよく今まで生きてこれたな?っていうところだらけだ。そして、どれも同じ感触がする。すなわち、通常あるはずの欲・意欲が希薄で、無理に求めようとしたときに希死念慮引き起こし級の異常に強い拒否感がする。

例えば〈幸せになりたいと思う〉というのが実はできない。よく「幸せになりたくない人なんているもんか」ぐらいの調子で語られることがあるが、今の私は反例である。幸せの定義にもよるが、だいたい尽く思えない。
「みんなが羨むような幸せ」には当然(当然?)興味がない。いわゆるキラキラした生活というか。そんなものはこっちから願い下げである。次点(?)の「世間一般の価値観は気にせずに、自分にとっての幸せを追求する」というのすら、実はいまいちしっくりこない。少なくとも今までは常に現状が幸せで満たされていたわけだけれども、そこからずり落ちていくことへの恐怖だとか、なんとしてもこの幸せを守らなければみたいなものがなんだか薄い。どこかへ押し流される自分に気付いても「そっかあ」とただすべてを諦めてぼんやりと見送ることしかしなさそうだというか。
いや、まあこれは単に平和ボケしているだけなのかもしれない。危機感や切迫感がないというか。そう言われるとぐうの音も出ない。
けれども今ある幸せが身の丈オーバーである感覚はとてもある。運命のうっかりで今は私の手の中にあるが、それはいわば脱税で得たお金のようなもので、いつ追徴課税されても文句は言えない。私は本来の所有者ではない。そんな感覚。
だから〈自分から幸せを掴むために行動する〉などということは到底できない。今すでに身に余っているものをどうして追加で掴みにいかなければいけないのだろう。間に合ってます。

……ここまで書いて私の頭はエンストしてしまった。人と比べてもすぐエンストしてしまう頭ではあるが(ワーメモなし)、今回はワーメモ絡みではなく壮大な伏線のようなものに気がついてしまったのが原因だ。つまり、①で喜び勇んで書いた現状肯定能力、あれを果たして現状肯定“能力”と言ってよかったのだろうか?という話だ。あれは能力などではなく不健全さの結果であって、病的にひたすら現状肯定してしまっているのではないか?しかしかつてのように1秒間に24回自己否定を繰り返すような状態が健全であるともまた思えない。現状を適度に肯定しつつ、程良い向上心も持つのが健全なあり方であるように想像する。向上心の中にはおそらく病的でない適量の自己否定が含まれているはずだ。でなければ今の自分を変えようと思うモチベーションが発生しえない。
そういえば、かつて(服薬以前)の私は物事を頑張ることができた(少し前にも書いたが、今の私は頑張った気がしないようなことにしか基本的には取り組めない)。たしかに面白さもそれなりに感じていたし、それがなかったら頑張れなかったとは思うが、高校と大学の受験勉強には正直かなり努力分が含まれていた。高校生の頃、ダイエットをしようと思ってしばらく筋トレを続けたこともある。当時は(それが適切な目標だったかどうかは置いておいて)「体重をいくらいくらにまで落とそう」などと〈将来の前向きな目標を具体的に設定する〉ことができた。ただ、いずれも非常に強迫的な自己否定に突き動かされる形での努力であって、努力は努力でも健全な努力ではなかったように思う。全身全霊で行う自己否定はロケットエンジンのようなもので、すさまじい推進力が得られる一方で、自己を燃やし尽くしてしまったらそこでおしまいで、あとは海へと落ちていくだけだ。それを思うと、「昔はできた努力が今はできなくなった」というよりは「未だかつて正しく努力できた試しがない」のかもしれない。燃やせるだけの自己はたしかに服薬によってだいぶ戻ってきたけれど、これをまた燃やして推進力に変える方向に持っていくと以前にもまして精神はズタボロになるであろう。服薬以後、ようやく私は無理をしないことを覚えた。いや、無理に対して過敏になっているために、適切な努力ができないのだろうか。無理をしすぎた反動で、一切の努力っぽいことができなくなっているのだろうか。一度切れてしまった糸はもうつながらないのか。それとも、振り子のように揺れながらいつかはちょうどいいバランスで止まってくれるもので、今は道半ばなのだろうか。答えは出ない。のでとりあえず置いておく。

続いての〈自分のために努力する、投資する〉で思い出すのは2つのトピックだ。自己啓発書と、先程も少し話題に挙げたダイエットである。
私は小さい頃から自己啓発の匂いのする本やブログを大の苦手としている。軽蔑している、と言ってもいいかもしれない。そんな偉そうなことを言える人間でもないのだけれど。でもとにかく、硬派でしっかりしているっぽい本もふわふわした有象無象の本も共通して持っている(と私からは見える)、あの自己啓発書特有のなんだかポジティブでキラキラした、意識の高そうな、幸せを追い求めようとする雰囲気が気持ち悪くて仕方がない。見ていて怖気が走る。お前は人から教えてもらわなければ幸せにすらなれないのか。そう叫びたいような衝動にかられる。頑なに啓蒙されたくないと思う。ここにも妙に強い気持ち、異常に強い拒否感がある。いわゆる愛と憎しみと無関心でいうところの憎しみに近いようなものなのだろうか?
でも私はもうひとつ、疑似科学やそれを利用した詐欺まがいの商売にも同じような気持ち悪さや拒否感を持っている。これはさすがに今回分析している問題に関係ないような気がする。単に好き嫌いとしてめっちゃ嫌いというだけでここまで強い感情を抱くものなのだろうか。まあでもこれにはASD気質も絡んでいるだろうか。それっぽいことを言って他人を騙す人間、そしてそれっぽいことのぽさにやられて騙されてしまう人間、どちらも直感的な理解不能度が高すぎて、虫か何かのように見えるのだ。自分だっていつ後者に含まれてしまうかわからないのに。前者たろうとする悪意はないにしても。
そういうそれっぽさと自己啓発書の雰囲気とは、分野にもよるがそれなりに近いところがある気がする。自己啓発書は人の背中を押すというか、前向きなよい気分にするために書かれたものである(と私は理解している)。一方それっぽいやつは事実無根(あるいは根があったとしてもひょろひょろ)のものをうまいこと「いい感じ」に飾り立てて虚像を作り上げている。多くの人にとっての「いい感じ」はやはり前向きさであったり、安全安心であったり、(時には超越的な存在から与えられるような)自信や使命感であったり、とにかく何かしらポジティブな雰囲気をまとったものであるはずだ。

……ポジティブ。そういえば私は普通にもともとかなり強いポジティブアレルギーだった。それが通常の個性の範疇なのか、何らかの問題の症状であるのかはわからない。ただこれが自己啓発書嫌いだったり、妙な疑似科学の匂いに敏感だったりするのに関係しているのは確かだろう。
しかしなんでポジティブな物がここまで苦手なんだろうな。パッと思いつくのは、考えることを放棄しているような、すごく無責任なような、そんな印象を今のところ持っているからかもしれない。
明日は明日の風が吹くなどと言って考えることをやめてしまうのは私にとって死を意味する。たとえ同じことやつらいことをぐるぐる考えるのであっても、考えを中止して頭の中がつまらない空洞になってしまうよりはマシだ。常に連想の絶えざる奔流の中を泳いでいなければ死んでしまう回遊魚人間なのだ。そしてぐるぐる考えるうちに螺旋のように少しずつ進んできたようなそんな感覚がある。私はどうやら頭の中を暇にされてしまうのを極度に恐れているようだった。極度に合理的に考えれば、うだうだとした暗い考え事はスパッとやめてしまって、空いた頭でもっと生産的なことを考えればいいのかもしれない。しかし私の興味は今そっちに向いていない。私はほとんどカロリーがなかろうとも今ガムを噛みたいのだ。私の歯からガムを無理やりはがすのをやめろ。うーん発達障害。
しかし無責任というのはなんだろう。本とかブログとか、人の気軽な発言とかに対してそう思うことが多いような気がする。真に私のことをよく知る人間が熟考の末下した判断ならまだしも、よく知らない人からの励ましや応援というのは、気持ちは嬉しいながらも、なんだか襟首を掴んでブンブンにシェイクしながら「お前は本当にできると思っているのか?そんな公算があるのか?」と問いただしたいような反発心が呼び起こされる。現実には曖昧な笑顔で流すことしかできないけれど、内心では適当なことを言うなとつい思ってしまう。つまりこれは私は自分の能力を他人から受ける期待の程度よりも低く見積もっていて(いや実際低いと思うし、期待は社交辞令で嵩増しされていたりするのだろうけど)、そこのところのズレが苦しみの根源なのではないか。その証拠に、私は他の人に温かい前向きな言葉をかけることについては別に平気だ。ポジティブが自分の身に降りかかってくる場合に限り全身が痒くなるのだ。

ものすごく脇道に逸れたが、とにかく私は相手の言ってくることと、自分の世界認識とがズレているのが我慢できないようだ。それが疑似科学アレルギーやテキトーな励まし嫌いに表れている。人から物を教わったり、自分の間違いを指摘されるのは大丈夫だ。論理的な説明を受け、認識を改めるべきは明らかに自分のほうだと納得できた場合は、むしろ人より素直なぐらいなんじゃないかと思う。しかし自己啓発書の著者は私のことなど1mmも知らない。そんな人に普遍法則かのように励まされたとて襟首ブン回しの刑だ。

励ましタイプの自己啓発がつらいのはまあそんな感じだからとして、では、意識高い系というかビジネス書の類が燃やしたくなるほど苦手なのはなぜだろう。そっちの説明がつかない。ビジネス書はどこの書店に行ってもたいていコーナーがあるものだが、あの空間の向上心濃度の高さにいつも気分が悪くなる。仕事とは。上司とは。部下とは。リーダーとは。営業。企画。転職。起業。ベンチャー。マネジメント。スキルアップ。無駄を省け。生産性を上げよ。よりよい人材になれ。
私は別にそこまでの仕事嫌いではない。もちろん突然億単位のお金が手に入ったりしたらすぐに仕事を辞めて二度と就職しないだろうというくらいには仕事好きではないが。まだぴよぴよのひよこちゃんだけど、業務は自分なりに真面目に一生懸命やっているし、お客様や会社全体のために何ができるんだろうな〜なんてことも少しは考えているつもりだ。向上心が全くないわけではないのだ。
でもビジネス書のあれはなんというか濃すぎる。今日のおやつはクッキーじゃなくてコンソメスープがいいなあと思っていたら海水をなみなみとたたえたマグカップを出されたようなそんな気分。濃いし、なんか違うのだ。方向性が。私は確かにしょっぱい液体がほしいとは言った。しかしそこにはコンソメの香りと玉ねぎの甘味がついていてほしいのだ。磯の香りなんていらない。とか書いているものの当然のように読まず嫌いなので違っていたら申し訳ないのだが、ビジネス書界隈、もしかして、勝利とか出世とか成功とか財産とかいったものを自分にもたらすために、その手段としてのみ仕事を捉えてないか。少なくともそういう空気を出しているものが外から見ていてかなり多いように見える。そしてその雰囲気は、点数が、単位が、評価が取れればそれでいいという、周囲にそれなりにいた要領の良い人達の言動とオーバーラップする。
私はどちらかというと知識を愛しているほうだと思う。テストで点数を取れたのはその結果であって、テストで点数を取ろうとしてテストで点数を取るのは、全くの無意味とまでは言わないが、最終目標がそこにあるのはなんか違う気がするのだ。試験とか資格取得というものは、少なくとも一応の建前としては、それを通して知識なり技術なりを身につけるためにあるはずだ。まあ、自分の進路選択のためにどうしても点数をとり単位を揃えてある資格を得なければいけないのだ、すべてはその手段だという考え方もあるにはあるだろうけど、それでもなぜその道にはそういう要件が課されているのかという点を考慮してほしいなあと思ってしまう。ともかくこのあたりの考え方が合わない人たちとは私は仲良くできそうにない。
横道に逸れまくっているが、ついでなので逸れきってしまうと、物事を徹底的に手段とみなしたり、効率よければ全てよしとするようなタイプの人が私はすごく苦手なんだと思う。それが世の中の多数派であり、成功者の中の多数派であったとしても。私は趣味として何かを創作したり、学生のときは他の多くの学生と同様に英語を勉強したり、社会人になってからはやはり他の多くの社会人同様に会社勤めをしたりしているが、「創作を通して自己を表現する」「英語を使って何かをする」「お金を稼ぐために仕事をする」という感覚がめちゃくちゃ薄い。そういう発想がなかった。むしろ、「創作するその過程がただただ楽しいから創作に走ってしまう」「英語の仕組みや語構成がおもしろいので気が済むまで参考書を読む」「日々の業務がわりと楽しいことばっかりなので仕事が続けられる」という感覚が強いのだけど、どうもこっちの方が少数派らしい。それそのものが目的となってしまうタイプの人間。別に、こっちの方が物事を極められるかというとそうでもないとは思う(現に私はどこかで頭角を現すほどえらくなってはいない)。効率も悪そうだし、興味だけで動いているのでうっかりすると重箱の隅みたいなところにハマりこんで本人だけが楽しいというようなことにもなりかねない(私が最近ハマっている筋少小物シリーズなんかまさにそれでは…?)(推しイメージのアクセサリー、オタクならみんな作るよね?それの楽曲版だよ…)。役に立たない知識を頭に叩き込むようなことをして何の意味があるのかとさかしら顔の大人や勉強嫌いの子供は言うが、私が思うに、特に意味はないけど楽しいんだよ…。それじゃダメかな(ダメっぽい)。いろんな物事そのものの持つ本質的な楽しさみたいなものを、たくさんあるいは深く知れたとしたら、それだけでその人生はよいものだったと言えるんじゃないかなと私は思っている。まあ長々と書いたけど、要はビジネス書の世界観が私の人生観と合っておらず、自らつまらない方向に人生を進めようとするように見えてしまう、ということなのかもしれない。
ところで、私は運動が大っ嫌いだ。スポーツを観戦するのも、チーム競技で汗を流すのも、一人でやる筋トレも、お洒落なヨガ教室も、どれにも出来る限り触れたくないと思っている。普通に超弩級の運動音痴であることに加え、身体を動かすことそれ自体の楽しさが私にはわからない。なんなら肉体を所有して常に重力がかかっていること自体に苦痛を感じているくらいなのに…。椅子に座ってこれを書いている今も過集中しすぎているせいか世界がありえないほど傾いて感じられて困っている。観戦の楽しさや見所もわからない。たぶん自分が少しでもやってみたことがあればもう少しわかるのかもしれないけれど、そんな経験はない。それにすごい人ってすごいことをすごくないみたいにやっちゃうし…。オリンピックも毎回、世間の熱中を尻目に見向きもしない。もう少し世間の熱中に影響を受ける身体であったらよかったのだけれど。とにかく世の中でこんなにたくさんの人々が熱中している身体を思い通りに動かすという営みが全く理解できないというのは、ぶっちゃけ人生の何割かを損してるんだろうなとほんのり思う。しかし私にとっては苦痛のほうが大きいので、あえて楽しさを探求しようとも思えない。これが才能がゼロということなんだろうと思う。

そして、目的人間なので、手段としての運動すなわちダイエットもできた試しがない。はいようやく元の話に戻ってきました。
こんな私でも実は拷問のような苦痛に耐えながら最長数ヶ月程度だけ筋トレを続けたことがあるのだけど、やり方が悪かったのか、苦痛のわりになんの効果も出なくて、何が筋肉は裏切らないだ、こちとら無に裏切られたわ(筋肉がついていないので無)というひどい傷つき体験をしたことがある。
食事制限もやったことがあるがストレスがすごかったというか半分拒食症というところまでいった割に全く痩せなかった。そもそも私の食い意地の張り方はかなり異常なレベルだと思うのでもう一回やろうとしたら半日で挫折するのが目に見えている。普通の食欲じゃない食欲が働いている感じがするのだが。コンサータで消えてくれると思ったのに全然消えてくれなかった。

そんな負の成功体験を積み重ねてきたわけだけど、それをどけたとしても元々楽しいとは思えないカテゴリーの行為だし、なおかつ身体を思い通りに動かすことが普通にめちゃくちゃ下手なので、誰でもできるあなたもできるという触れ込みの記事や動画を見る気はとうの昔になくしてしまったし、見たとてたぶん私が正しくできるようになるには説明が足りないものばかりのような気がする。なんかどんどん自己肯定感関係ない話に突き進んでいっていることは私もわかっている。ここまでは確かに自己肯定感とは関係のない特性とか失敗経験による努力のできなさだった。
ところで、食事も運動もどうにもできそうもない、という人間が次に検討するのはふつう、金にものを言わせて美容整形の範疇に属するいろんな痩身術を受けてしまおうかということだと思う。最近はいろんな手法ができてきているという。値段も数十万円とかで、まあどう頑張っても手が届かないというほどのものではなさそうだ。それでも私が踏み出す気になれないのは、金額の大きさやリスクのこともあるけれど、やはり「痩せてしまっていいのか?」という無視できないそこそこの音量で響いてくる心の声だ。自分のことはわりと太っていると思うけど、別にそんなに痩せたくない。自分なんかが痩せてしまっていいものだろうか。痩せるなどということは君の人生とは関係のないことだよ。そんな気持ちがある。
中でも「痩せてかわいくなる」みたいな文言を見聞きすると私の心はウワ-と叫んで裸足で逃げ出してしまう。おそらくそれは、かつてなかなかの醜形恐怖であって、それをなんかちょっと変な形で克服した後遺症のようなものなんだと思う。
中高生くらいの頃、私は自分の容姿がよくわからなくなって発狂しそうになっていた。鏡に映る自分はまあ平凡な普通の顔をしている。偏差値45ぐらいかな。しかし写真に映る自分があまりにも醜い。どっちが本当なんだろう。わけがわからなくなって、狂ったように何時間もかけて角度を少しずつ変えながら大量に自撮りしたり、合わせ鏡を駆使して反転しない像で自分を見てみたり、していた。わりと狂気の域だと思う。そのうち鏡に映る自分もなんか崩壊してきたというか、今まで鏡を見るたびに感じてきた偏差値45感が曖昧になってしまい、日によって20だったり反対に60ぐらいあるような気がしたりと自己評価がぐちゃぐちゃになっていった。
それを、私は美を諦めることによってひとまず克服した。自分の醜さに慣れたというか、醜いことを思い悩むのをやめ諦めて受け入れたのだ。人にはいろんな才能の差があるが、私はたまたま容姿に恵まれなかっただけ。それがどうしたのか。たしかに美人は得をするかもしれない。しかし得をできるだろうからといって、自分が金持ちの家系に生まれつかなかったことを悔やみ、どうしたら今からでも金持ちに生まれつけるだろうかと悩むことはバカバカしいではないか。金持ちでない家に生まれついた我々は、努力して財産を築き上げるか、それができないなら平凡に一生を終えるか、どちらかしかできない。存在しない親の遺産について、あったらいいのになあと考え続けるのは時間の無駄だ。美人にもし生まれついていたら得られていたであろう得など、取らぬ狸の皮算用も甚だしい。やっぱりこれも、私の人生には関係ない。それだけのことだ。そういう風に考えられるようになってやっと、発狂しそうな感じから逃れることができた。そんな経緯があるから、私は未だに〈自分のことをかわいいと思う〉ことができない。元が不美人なのだからどれだけ取り繕ったとしてもせいぜい人造美人だというか。先程の財産の例えで言うならば、どれだけ努力しても成金にしかなれず、何世代にもわたって上流階級にいるような人々そのものに自分がなれるわけではないのだ。
ではなぜ成金のような人造美人を目指さないのかの言い訳をしておくと、美容の方面に関する才能が私にはこれっぽっちもないからだ。服とか身につけるものはまだいける。前にも書いたけれどそれなりに努力してそれなりのセンスが身についたと思う。しかし髪型とか化粧とかの方面はてんでダメなのである。これはTwitterでこの前少しつぶやいた話だが、「綺麗な一つ結びのやりかた」みたいなタイトルの記事があり中を見てみると、ただくくっただけで華やかさに欠けるという悪い例の写真が、私がまず辿り着きたいと思うようなものであった。美容系の情報というのは正直こういうものが多い気がする。手順1に至るための手順を、なぜか誰も教えてくれない。ただくくっただけでそれほどの差が出るのであれば、やはり私は写真の中のモデルさんと違って、碌でもない髪質か、碌でもない不器用か、あるいはその両方かに生まれついているのではとの思いを禁じ得ない。「サルでもわかる算数」というような参考書を読んでわからなかった子供が俺はサル以下かとふてくされてしまうような、そんな気持ちだ。化粧品も、コンシーラーやビューラーやマスカラやパウダーに関しては、使って見た目がよくなったことがない。というか使ったほうが汚い顔になる。多分使い方が悪いのだろうけど、ググった通りの使い方をしてもやっぱりダメなので今はもう使うことを諦めている。そんなに私の顔立ちや肌質って異常値なのだろうか。いろんな美容記事に、間接的に否定され続けて私はすっかり疲れてしまったのだ。だから、不断の「かわいくなる努力」なんていうものはもうしたくない。気になったときに気になったものを試してみることしかやりたくない。言い訳終わり。

さっきまでの話と、〈自分の価値を認める〉〈自分を大切に扱う〉とかができない件とは少し被っている。時間をかけて「自分ブスだけどまあいっか」となったのと同じように、「自分には価値がない、どうしよう、死のう」だったのが、徐々に「自分価値ないけどまあいっか」になってきているのだ。昔、「筋トレは人をポジティブにする。続けた結果、『死にたい…』が『よし!死ぬぞ!』になった」というような内容のツイートがあったが、それと似たような心境の変化だ。筋トレしたわけじゃないけど。
これがいい方向に向かいつつある過程なのか、はたまた変な袋小路に入ってしまっている状態なのかはよくわからない。「ありのままの自分を認めよ」とはよく言われるけれど、それってこういうこととは違うのだろうか。「かけがえのない存在」というような言葉も、他人には自然に適用できるように思うけれど、自分に当てはめようとすると全身にブツブツができて息絶えてしまう。「自分を大切にできない人は他人を大切にできない」というのは本当だろうか。

自分は他人と違って存在として「薄い」。そんな感覚がある。いやまあもともと目立つほうではないのだけどそういう意味ではなくて、ほら、自分だけ一人称視点だし。他の人は目や後頭部が見えるけど、自分の目や後頭部は直接視認できないし。他人は視覚的に確認できるけど、自分の存在は主に身体感覚でしか捉えられない。そして私は身体感覚が超苦手。自分とそれ以外との感覚的な差の源って、私の場合案外こういうところにあるんじゃないのかと思う。根拠はないが。
ないけど、もしそうなら、小さい頃から「私はいてもいなくても変わらないのではないか?」という感覚がなくならないことも説明がつく気がする。大抵の人は、たとえ突然いなくなっても、周りに惜しまれはしても世界全体としては問題なく回り続ける。けれど多分大抵の人はあまりそういう感覚で生きてはいないのではないか。知らんけど。でもそこの分かれ目が、本当に「主観的にどう感じているか」によるところが大きかったとしたら。感覚的にいるんだかいないんだかよくわからない(これは本当にそうで、寝起きの疲労状態とかはマジ物理的存在…という感じがする一方で、過集中に入ったりすると身体は溶けてしまって意識だけがそこにあるような感じがする、それを日々行ったり来たりして生きている)というのが、いてもいなくても変わらないはずという信念に進化するのはすごく容易いことなのではないか。

〈大事に思ってくれている人がいると認める〉ことができないのにも、それだけではないにしても、それが影響しているんだろう。自分は希薄な靄のよう。他人は確固たる存在。私はいくらでも他人を大事に思えるが、他人から大事に思われるのは感覚的になんだかしっくりこないところがあるのだ。
加えてやっぱり私は人の気持ちがいまいち感覚的にはわからない(ASDっぽい)。いくら言葉をかけられても、態度に表されても、その言葉や態度をとりあえず受け取ることしかできず、それらの背後にある好意を感知して受け取ることがいまひとつできていない。

受け取れないといえば、〈人の褒め言葉を素直に受け取る〉というのも結構厳しい。褒められたり認められたりすることに対して妙な反発心を抱いてしまう。
気づいたときにあまりにもびっくりしたので、これも前にTwitterで呟いた話だが、私が異常なまでに、蛇蝎の如く、ナンパを嫌っているのもおそらくこれが関係している。
ナンパというのは、通りすがりの人にある種の人間認定を受ける出来事にほかならない。なんのこっちゃと思われるかもしれないが私は大真面目だ。もちろん一般的な意味で対等な人間扱いではない可能性は高いが、最低でも行きずりの相手にしてもいい程度には同種とみなされている。後半の側面に着目するとナンパは肯定テロ行為であるともいえるだろう。
しかし私の内心の奥深く、無意識との境目のあたりにはどうやら「私は人間じゃない」と刻み込まれているようで、街を歩いていて突然お前を人間のメスと認める!と突きつけられると違う違う違う違う!となってしまうのだった。
もちろん普通に鬱陶しいとか、気持ち悪いとかそういう嫌さもあるのだが、そういう普通の感情を、耳をつんざくサイレンのようにデカい「何もわかってないくせに知ったような口をきくな」という気持ちが塗りつぶしていく。「自分を違うものとして扱われたこと」への拒絶反応。
……いやどんだけ自己肯定感低いねん。大草原を通り越して熱帯雨林の豊かな自然と生命の神秘。しかしまあこれでようやく全項目を一通りは掘り下げ終わった。長かった。2万字に迫る長さになってしまった。

実は、上に書いたのは2020年4月ごろの話で、そこから1ヶ月ほど公開せず寝かせてあった。最後ちょうどいいまとめ方が思いつかなかったのもあるが、何より状況が結構変わってしまったのが大きい。わりとこれを書いている最中は精神が不安定だったのだが、書き切ってしまうとそれなりにやっていくぞという気持ちに(今のところは、かもしれないが)なれている。
ちゃんと一人暮らしもしたいし、できれば幸せになりたいなあと思うし、少しずつ運動もしてみようかなあとかも思っている。苦手な部屋の片付けも頑張っている。などと自分を認めることも、ちょっとできる。何か鬱をやってからずっとダメだった本を読みそして没頭することもできそうな感じがしている。もしかしたらこの文章の錬成にセルフカウンセリング的な効果があったのかもしれない。
過量のポジティブに触れてしまうとやっぱりしばらくつらくなってしまうけれど(闇の眷属)、自分に無理のない範囲で、時々後ろも向きつつ、概ね前向きぐらいでやっていければいいと思う。