ワンダーウォール

 その男には左腕がなかった。
 どうしたのかと訊くと、野菜と一緒に煮込んで振舞ったと答えた。それから男はこう言った。
「初対面から人の外見に言及するなんて、君は失礼な男だね」
 男は世にも珍しい、人語を解する食用人間だった。

 男の興味は音楽にあるらしかった。
 通常、食用人間は言語を獲得することができないはずなのだが、男は後天的な努力と才能によってその力を得たらしい。結果、研究対象に格上げされ、食用として供されることのなくなった彼だが、それでも得られないものがあった。
 音楽だ。
 彼には、音楽がわからないのだと言う。

「音楽とは何なのだ?」
「何って言われてもな……楽しい気持ちになったり、気分を落ち着かせたりするために聴くもんじゃないか」
 違う、と男は言う。
「そんなことは訊いていない。なぜそうなるのか、なぜ音の連なりごときに人が影響されるのか、それが理解できないのだ」
「どうして音楽に拘るんだ?」
「音楽は人にだけ許された悦びだ。他のあらゆる生命に音楽という概念は存在しない。もし私に音楽のことが理解できたなら」
 男は言う。
「私も、人になれるかもしれない」

 僕は食用人間の生産場を見たし、屠殺場も加工肉用の冷蔵庫も見た。牛でも豚でもない、人にしか見えない肉が無数に吊り下げられている光景は、頭のスイッチを切り替えずには正視できなかった。
 そしてそれらのどこにも、祝福の音楽は存在しないのだ。
 僕の頭のスイッチは切り替わったままだ。

「無理だよ」と僕は告げる。「君に音楽は理解できない。なぜなら君は、肉だからだ。食べられるために存在してるからだ」
 男は右手を持ち上げ、そのまま右の耳を引きちぎった。
「これが食べ物に見えるのか?」
「痛くないのか?」
「私は痛覚を取り除かれた。人が言うには、私には」笑う。「自傷癖があるらしいからね」
 男は自らの耳を焼き、茹でた後に千切りにし、皿に盛り付けて僕の前に差し出した。これまで食べたどんな動物の耳より美味かった。
「左腕もこうしたのか?」
「食べてはもらえなかったがね。嘔吐していたよ。だが失敗だったな」
「何が?」
「調子に乗って左腕をちぎってしまったせいで、料理の幅が狭まってしまった。片腕では食材をおさえることすらままならない」
 そう笑う男の表情はずいぶんと人間的だった。
「この部屋には」と僕は言う。「ずっと音楽が流れている。はるか昔のブリティッシュ・ロックだ。気付かなかったか?」
 男はさみしそうに首を振る。
「さっきの君の出した音。スライシングナイフとカッティングボードがぶつかる音。あれはずいぶんと音楽的だったな。まるで一緒に演奏しているようだった」

 一度切り替えたスイッチを、元に戻すわけにはいかない。
 僕は男の顔を見ずに立ち上がる。流れる音楽の通り、僕と彼の間には不思議な壁が立ち塞がっているのだ。それを乗り越える覚悟など、僕にはなかった。

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