センパイと一緒。 その2

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  3

 神様がイジワルだろうがなんだろうが、そのことで僕が意味もなく落ち込もうがなにしようが、そんなこととはまったくなんの関係もなく時間は流れる。先輩と再会してから一ヶ月ほどが過ぎた。もうすっかり秋だ。
「あぁ、狩りに行きたいよねぇ」
 先輩は相変わらずマイペースに、それでいてやけに要領よく仕事をこなしていた。すっかり店長やほかの従業員の信頼を勝ち得たらしい。
 自分の場合を考えると、つくづく向き不向きというのがあるんだなあと思ってしまう。先輩のぼんやりしたところなんかは、むしろ客商売には向いてないと思っていたのだが、もはやベテラン級の落ち着きっぷりだ。なんか、ちょっとばかし悔しくもある。
「狩りってなんですか?」
 横にいる武内が聞いた。控え室にいるのは三人だけだ。すなわち、先輩と武内、そして僕。
「いろいろあるでしょう? イチゴ狩りとか、ぶどう狩りとか」
「ああ、そういう狩りね」
 総称の仕方がおかしいよ、と僕が言うと、あとマツタケ狩りね、と先輩は言った。人の話はあまり聞いていないらしい。
 ちなみに今日の先輩は、足首に包帯を巻き、ひざ小僧に絆創膏を二つ並べて貼っている。こけてねんざし、ひざをすりむいたらしい。
 先輩がなにもないところで転んだのを目撃したことがある。僕にはとてもまねできない。ていうかこけんなよ、大人なんだから。
「いいですね。したいですね、マツタケ狩り。実はおれ、マツタケって食べたことないんですよ」
「うそー、貧乏人」
「いや、そんなはっきり言わなくても……」
 先輩と武内はいつの間にか仲良くなっていた。僕を介せずに二人が話している場面に遭遇すると、大人気なくイライラしてしまう。
「うそうそ。わたしもほとんど食べたことなんてないよ」
「そういうもんなんですかね。遠藤さんは?」
 武内が話を振ってきた。武内の目と先輩の目が同時に僕のほうを向いた。大体なんで二人が隣り合って座っているんだろう。それで隣同士で盛り上がって、僕なんてまるで蚊帳の外じゃないか。
 もしかしてもう付き合ってるとかじゃないでしょうね? そう聞いたのは武内じゃなかったっけ。同じ事を僕も聞きたいと思った。思ったけれど聞けるわけもなく、マツタケなんておいしくないよ、とひねくれた回答をした。
「そうなの?」と先輩。
「でもすごく高いじゃないですか」と武内。
「高くたっておいしいとは限らない。ただ希少価値があるだけさ」
「と、遠藤さんは言ってますけど?」
 先輩は人差し指を柔らかそうな唇に当てた。
「じゃあ、……ぼったくり?」
 いよっし、わっかりましたっ、といきなり武内が大きな声をあげた。
「うるさいよ、バカ。いきなり大声出すな」
「行きましょうよ、マツタケ狩り」
 僕の言うことを意に介せず、武内はそう宣言した。
「おれ、免許持ってるし、運転しますよ。なんかそういう楽しげなイベントのひとつでもなきゃ、やってられないでしょ。もう秋だしね」
 まったくわけのわからない理屈だ。それなのにそんな企画が通ってしまう辺り、退屈というのは恐ろしい。
 先輩はここのところずいぶんと暇だったらしい。毎日やることがなくて、なんて言っていた。僕だって負けず劣らず暇だった。バイト以外では本当にやることがないのだ。
 先輩と武内を二人きりで行かせるわけにはいかないので、もちろん僕もついていくことにした。バイトの休みを取り、次の週の平日に行くことになった。武内は学校も休むらしい。受験生のくせに大丈夫なんだろうか。まあ知ったこっちゃないが。
 武内はレンタカーを借りるつもりだったようだが、先輩が家の車を出してくれることになった。ついでに運転も先輩がすると言い出した。僕は先輩が免許を持っているということすら知らなかった。先輩の運転。大丈夫なんだろうか。
 結論から言うと全然大丈夫じゃなかった。
 ハンドルにほとんど体を密着させるようにして行われる先輩の運転は、遅々として進まなかった。高速道路に乗っているのに、どちらかといえば低速で走っていた。そもそも僕たちはマツタケ狩りとやらに向かっていたはずだ。マツタケといえばどちらかといえば山だろう。それなのに気がつくと海沿いの道を走っていた。ここどこ? と言ったのは先輩だった。
 先輩の家の車は、古びた感じの小型車だった。小柄な先輩にはちょうどいいかもしれないが、助手席の僕には少しばかり窮屈だ。武内にとっては最悪だったろう。後ろの座席に体育座りの要領で足を抱え込んで座っていた。武内は腹部を圧迫しているからか、すぐに車酔いをしたらしく、終始、青い顔をしていた。
 武内があまりにもつらそうなので、車を道の脇に止めて海岸に下りることにした。
 なにもない一本道だった。右側は畑になっていて、ところどころに小屋があった。その後ろは林のようになっている。田舎の風景って感じだ。
 左側が海だった。道から二メートルくらいの段差があって、コンクリートの階段で海岸に下りられるようになっている。海の家っぽいものがあることから、夏には海水浴場として利用されているのだろうが、さすがにいまはもう誰もいない。
 僕と先輩は砂浜を歩いた。武内が車の中で休んでいるというので、思いもかけず先輩と二人きりだった。
 砂浜はゴミでいっぱいだ。ジュースの缶やペットボトル、ビニール袋や花火の残骸などが、いたるところに散らばっていた。海水浴場というよりも、夢の島を歩いているようだった。というより自分の部屋を思い出した。情けない。
 一歩踏み出すたびに靴がざっくりと砂に沈む。久しぶりの感覚がなんだか心地よかった。
「もっと海のほうに行こうよ」
 先輩が言うので、僕たちは波打ち際まで歩いた。
 海に近くなればなるほどゴミの量は減っていった。波打ち際にゴミは捨てない、という暗黙の了解でもあるのだろうか。それとも海がゴミすらも飲み込んでしまうのだろうか。
「なんか気持ちいいねぇ」
 冷たい潮風が僕たちの間を吹きぬける。確かに気持ちよかった。しかし、いかんせん強すぎた。長い黒髪がばさばさとはためいて、先輩は押さえるのが大変そうだ。
「ちょっと遠藤くん、帽子ちょうだいよ」
「ええ、マジすか?」
 僕はかぶっていたニットキャップを先輩に渡した。
「遠藤くん、髪短いから大丈夫でしょ」
 水色と白のストライプのニットキャップは、先輩によく似合っていた。後ろからはみ出した髪の毛はそれでも風になびいている。
 僕は急に頭が寒くなってくしゃみが出た。
「もう、おおげさなんだから」
 うふふと微笑む。僕も笑顔を返す。
 誰もいない海に来たのは初めてだった。最後に来たのはいつだったか、と考える。おそらく小学生のころだったはずだ。夏休みに家族で海水浴に出かけたのだ。
 当たり前のことだが海は人であふれていて、僕はろくに泳げず、しかししっかりと肌だけは赤く焼いてしまって、その痛みにさんざん苦しめられた。デメリットばかりでちっとも楽しくなかったため、もう行かない、とすねて泣いたのだった。
 僕の話に、先輩はうふふと笑った。
「私はねぇ、高校のときかな。三年の夏休みに、遊べるのも最後だからって、友達と三人で九十九里浜に行ったの。ナンパばっかりされて大変だったな」
「ナ、ナンパっすか?」
「そう。もういやになっちゃって」
「その、ついていったりしたんですか?」
「そんなわけないじゃない」
 先輩は優しく微笑んだ。でもそれは悲しそうでもあって。
 僕はなんだか切ない思いにとらわれてしまった。なぜなのか自分でもよくわからない。ただ、先輩の表情を見ていて、なんとなく胸を締め付けられるような感じがしたのだ。
 このまま波打ち際で先輩と水をかけあったりして、きゃあきゃあいちゃいちゃ、みたいなことを出来たらなと思ったが、とてもそんな空気じゃないので、戻りましょうか、と僕は提案した。
 車に戻り、ぐったりとしている武内も起こして、先輩の作ってきてくれたサンドイッチを食べた。帰りは武内の運転でそれぞれの家路についた。
 楽しくもあったがなんだか寂しくもあった、そんなドライブだった。
 青春の一ページ。暇人の憂鬱。


  4

 飲みに誘われることもある。
 いきなり武内から電話がかかってきて、今から来いと言われた。
「どうせバイト休みでしょ」
「なんで知ってるんだよ」
「シフトの予定表見りゃわかりますよ」
 飲み会が行われるのは珍しいことじゃなかった。どこでもそんなものなのか、それともここが特別なのかはわからないが、うちの店ではことあるごとに飲み会や誕生日会などが催されるのだ。
 武内によると、飲み会のメンバーは、顔だけなら知っている、かろうじて名前だけわかる、みたいなやつばっかりだった。ディナーのメンバーが中心だったからだ。
 はっきり言って、ディナーのメンバーのことはあんまり知らなかった。そんなところに僕なんかが入ってもいいものなのだろうか。
「おれさあ、どうせ浮くからあんまし行きたくないんだよ」
「なに言ってんすか。せっかくなんだから、喜び勇んで来なさいよ」
「なんだそりゃ」
 会場はなんと高橋さんの家だった。高橋さんには奥さんがいるし、子供も三人いる。企画したのはいったい誰だ。明らかに選択ミスじゃないか。そう言うと高橋さんは、いいんだよ、と哀愁を漂わせながら笑った。
「奥さんも子供も今日はいないから」
「そうなんですか?」
「別にもめてるわけじゃないよ。心配いらないから」
 高橋さんは聞いてもいないのに弁解してくれた。僕は深くは聞かないことにした。そもそも自分から心配いらないというやつは、何か心配されるようなことがらがあるのだ。
 高橋さんと僕は年齢的にさほど変わらないのだが、ちょっと立場が違いすぎた。とても相談には乗れそうにない。大人にはいろいろとあるもんだ。
 飲み会には先輩も来ていた。
「やっほー、遠藤くんも来たんだ」
「呼び出されましたよ」
「よしよし。あんまり知ってる人いないからさ、寂しいなぁと思ってたんだ」
 それは僕も同じだ。てか、先輩がいるなら先にそう言えよ、武内よ。
「おれが呼んだんですよ。感謝してくださいよ」
 武内が先輩に聞こえないよう耳元でささやいた。変なところで気の利くやつだ。
 そういえば先輩と飲むのは初めてだった。当たり前だ。前に一緒にいたのは中学時代だったんだから。
 高橋さんちの見たところ十二畳くらいの広さのリビング。そこが宴の会場だった。
 中央にやたらと重そうな木製のテーブルが置いてあり、それにくっつけるように折りたたみ式の簡易テーブルが設置されている。大人数なのでテーブルひとつではまかないきれないのだ。
 テーブルの上には大きな土鍋があって、たくさんの肉やら野菜やらがおいしそうに煮えている。高橋さんのお手製だ。この上料理まで出来るなんて、高橋さんを旦那にした奥さんはさぞ幸せなことだろう。
「おいしいねぇ、これ」
「ほんと、おいしいっすね」
「遠藤くん、一人暮らしでしょ? ご飯とかどうしてるの?」
「自分で作ったり、買ってきたりしてますけど」
「これ、作りかた教えてもらったら?」
「こんなのでよかったら、いくらでも教えてあげるよ」
 僕らの背後を通りかかった高橋さんが言った。さっきから高橋さんは、追加の鍋の材料をきざんだり、空になった皿を回収したり、いそいそと動き回っている。
「でも一人暮らしで鍋は無理でしょ」
「今日みたいな感じでみんな呼んで、飲み会でもやったらいいじゃない」
「ああ、そうだよ。今度遠藤くんとこでやろうよ。そのときはわたしも呼んでね」
「うち、狭いすもん」
 先輩だけが来るならともかく、飲み会なんてごめんだ。騒がしいし、うっとうしいし、後片付けを考えるだけでも気が滅入る。自分の家で飲み会をする人の気が知れない。こんな面倒くさいこと他にないだろう。先輩だけが来るならともかく。
「そういう面倒なのが好きなんだよ。いろいろまぎれるだろ?」
 そんなもんですか、と相槌を打ちながら、僕は鍋に手を伸ばした。

 一人で孤独に飲んでいるからか、あっさりと酔いが回ってきた。
 飲み会は盛り上がっていた。盛り上がってないのは僕くらいのもんだ。
 しかしよく考えたら、ここにいるのはほとんどが高校生だ。盛り上がってていいもんだろうか。仮にもこれは飲み会で、飲むのは甘いジュースではなく、泡のジュースなのだから、僕は注意するべき立場なのかもしれない。
 僕だけではない。二十歳を超えているのはこないだ誕生日を迎えた僕と、あとは先輩と高橋さんだけだ。誰かがちゃんと注意するべきなのだ。君たち、未成年が酒を飲んでいいと思っているのか。そんなことで立派な大人になれないぞ?
 そんな大役を先輩には期待できない。すっかり盛り上がりの輪から外れてしまっている僕は論外。だったら高橋さんだ。高橋さんが注意しないで誰がするというんだ。まったく、高橋さんはなにをやっているんだ。
 大丈夫? と声をかけられ振り向くと高橋さんだった。
「どうしたの。気分でも悪い? 調子悪かったらすぐに言ってね」
 なんて気がつく人だろう。僕は高橋さんに敬意の念を抱きながら、手を上げて答えた。高橋さんは良い人だ。
「なんてざまですか」
 武内だった。
「うるさいよ」
 外見も中身もジュースみたいな生チューハイを一気に飲み干す。
「おかわり」
「誰に言ってんですか」
 武内は盛り上がりの中心だった。先輩もなんだかんだいって高校生たちとなじんでいた。結局浮いているのは僕だけだ。
「あのねえ、そんなこと考えてるから浮くんですよ。飛び込んでこい!裸で! ほら早く!」
 真っ赤な顔の武内は出来上がっているようだった。酔っ払いはたちが悪い。
「そうだ脱げ脱げ!」
 全然酔っているように見えない先輩は、単なるノリで言った。それはそれでたちが悪い。
 僕はからまれないように二人から避難して、部屋の隅のほうに縮こまった。
 左右に広がる白い壁とフローリングの床。それらが交わる角っこに尻を押し込む。部屋の南側には壁の半分を覆いそうなくらいでかいプラズマテレビがあって、幾人かがテレビゲームに興じていた。僕の部屋にはないプレステ2だ。最近めっきりゲームを買わなくなった僕には、みんながなんのゲームをやっているのかさっぱり分からない。
 フラットで映りこみの少ないきれいな画面で、細かなところまで書き込まれて色鮮やかなキャラがグリグリと動いている。遠くから見ていると目が回りそうだ。みんなはとても楽しそうにしている。
 ああ、なんかすごい遠い。同じ部屋にいるのに違う世界だ。
 ふいに、なにやってんだろうなあと思った。全然楽しくない。楽しい空間にいるはずなのにひどく憂鬱な気分になっている。きっとなにかが欠けているのだ。そういう考えに落ち着いた。アルコールが入っているせいもあるかもしれない。
 みんなと同じことがどうしても出来ない。それはどこかが間違っているからだ。その間違った場所を特定し、修正しなければならない。そうしないと僕はちゃんとした大人になれない。
 なんでだろうなあと考える。ふわふわした頭で考える。
 考えて解決しなければならない。考えて打開しなくてはならない。でも考えたって答えなんかでないのだ。今までずっと考えてきて、ずっと答えが出なかったのだから、これから先もずっと同じだ。状況は変わりやしない。
 それでもなんとか楽しげにいられるのは、ひとえに先輩のおかげだった。とりあえずは先輩のおかげで暗い自分から自由でいられるのだ。
 もしも先輩がいなければ、と考えると空恐ろしい。
 きっと僕はなにもしないだろう。ひたすらに無気力な生活を送ることだろう。それは嫌な想像だ。しかし先輩が僕の前に現れたのは、まったくの偶然だったはずだ。先輩と再会する前の僕はどんな感じだったんだっけ? いまいち思い出せない。
「遠藤くん。なに暗い顔してんの?」
 高橋さんが怪訝な顔で聞いてきた。高橋さんは酒を口にしていない。世話役に徹している。
「暗い顔なんてしてないですよ。酔っ払っただけです」
「だったらいいんだけどね」
 そう言ってキッチンに戻っていく。その後姿を見送りながら、あの役がよかったなと思った。
 高橋さんはこんな席でも忙しそうだ。忙しいと余計なことを考えなくてすむ。高橋さんも言っていた。わずらわしいのがいい、と。余計なことは出来るだけ考えたくないもんだ。
 早く終わんないかなあ、と思った。
 そんな僕の思いとは裏腹に、宴会が落ち着きを取り戻すまでさらに二時間もの時がかかったのだった。

「わたし、ここでバイトしてよかったな」
 先輩の息が白い。そろそろ日付が変わる。すでに変わっているかもしれない。もう十二月も半ばを過ぎた。外はますます冷え込んできて、手袋とマフラーがほしい。
 空には黒い雲が立ち込めていて光源がない。星も見えない。眼下の公園にはところどころ街灯が立っていて、ほんの時々横切る人がいる。犬の散歩をしている人。携帯で話しながら通り過ぎる人。公園内の自動販売機にジュースを買いに来た人。酔っ払っているのかベンチで少しだけ休んでいく人。
 僕は口元を手で覆い、わずかばかりの暖をとった。外の冷たい空気を吸って、酔いは少しさめてきている。
 先輩は全然酔っていなかった。一緒に飲むのは初めてだったが、普段と変わるところはなかった。いいちこを水みたいに飲んでいた。
「どうしてですか?」
 僕は先輩を誘って部屋の外に出た。マンションの通路。
 宴はずいぶんと沈静化していて、うとうとと睡魔に手招きされているやつもいた。先輩は高橋さんを手伝って、酔っ払いの相手や後片付けに追われていた。こんな時にしらふだといろいろとつらい。助け舟の意味もかねて僕は先輩を呼んだのだった。
「だってね、わたしが今までバイトしたところは、こんなふうにアルバイト同士で遊ぶことなんてなかったもん」
「そんなもんですか」
「そうだよ。それが普通だと思うよ」
「ここでしかバイトしたことないんで、よくわかんないですね」
「それもちょっと変だよね」
「変ですか?」
「変だよぉ。まさかいまだに同じところでバイトしてるなんて思ってなかったもん」
 先輩は、いまだに、と言った。
 いまだに?
 どうやら先輩は、僕がファミレスでバイトしていることを知っていたらしい。
「高校のときかなぁ、お客さんとしてご飯食べに行ったときにね、遠藤くんを見かけたんだ。それでなんとなく覚えてたの」
 それから先輩は、うふふと照れたように笑って、視線を空へと投げ出した。
「ほんとのことを言うとね、遠藤くんに会いたくて始めたようなもんなんだよ。このバイト」
 ふっと頭の中が真っ白になった。思いがけない言葉に何も考えられなくなった。血が逆流し汗が噴出し心臓がうるさいくらいに収縮を繰り返す。
 僕は単純に驚いていた。まさか先輩がそんなことを言うなんて思ってもみなかった。
 それは、そんな言葉を待ち望んでいるのだけどきっと言ってくれないだろうな、などという妄想が現実になったわけではなくて、本当にまったく想定外の言葉だった。
 だからこれは交通事故みたいなものだ。空から降ってきた隕石に頭を打ち抜かれたようなものだ。全然望んでいない、むしろあってはいけない出来事が起こってしまったのだ。
「いろいろあってさぁ、最近では昔のことばかり思い出すんだよ。あのころに戻れたらいいなぁって。楽しかったじゃない? 遠藤くんと一緒にいたころはさ」
 だから僕は次の瞬間には行動を起こしていた。考える暇もなく、思いとどまる隙もなく、反射的に動いてしまっていた。理性は置いてけぼりにされた。
 本当なら言うはずのなかった言葉。
 それはきっと外に出たがっていたのだろう。いつかほころびができるのをじっと狙っていたのだろう。待ち望んでいたとすればこいつだ。この言葉自体が、僕の口から先輩に向かって放たれたがっていたのだ。
 僕は口を開く。それは僕であって、僕ではない。なんせ頭に血が上っているのだ。頭に血が上っているからこそ、言える言葉なのだ。だからこれは仕方がない。僕はいま正常じゃない。
 そんな言い訳。
 自分に対する言い訳だ。
「だからさ」
「ずっと先輩のことが好きでした」
 呆れるほど直球だった。
 無言の夜の空気に、僕の言葉はうっすらと吸い込まれていく。
 声帯を震わすことができずにいたのは、多分そんなに長い時間じゃないはずだ。その数十秒が僕には永遠に思えた。冷たい空気は内側から体を冷やしていく。言葉までもが凍えてしまいそうだった。
 僕は、自分の発言を異常だと思っている。いまさらこんなことを言い出すやつは、死んだほうがましだと思っている。
 黙っているわけにはいかなかった。おかしなことを言い出したのは僕なのだ。なんとか決着をつけなければならない。頭に血が上っていながらも、どこか冷静な自分がいた。
 だから僕は、いまの発言を冗談にする。ちょっとぎりぎりのジョークにする。そうしなければならないのだ。うそです。冗談です。いくらなんでもまさかですよね。五年も引きずってたなんて、それはちょっと、いくらなんでも、気持ち悪いってもんですよね。そう続ける。続けてみせる。そのはずだった。
 先輩はこっちを見ていなかった。一瞬、いままでの発言を全然聞いていなかったのかと思った。しかしそうではないのだ。
 先輩は顔を真っ赤にしていた。お酒のせいではない。先輩は恐ろしく酒に強い。先輩の顔を赤く染めたのは僕の告白だった。それ以外になかった。
「いや、あの、その」
 僕は慌てた。激しく動揺してしまった。まだ話は途中なのに、続きを忘れてしまった。
 言葉が上手く出てこない。とりあえず何か言わなければ。冗談なんです、そう言わなければ。言ってなんとかこの場を収めなければ。
「……ごめんなさい。遠藤くんがそんな風に思ってくれてたなんて、わたし全然知らなくて……」
 ちょっと泣きそうになりながら、先輩は上目遣いに僕を見た。どうしようもなく可愛い顔だった。わざとじゃないか、と疑いたくなるほどだった。
 まいった。まいってしまった。僕はため息をつくように「はあ」という返事をしてしまった。さっき自分で口にした、冗談にする予定だった言葉を自ら肯定してしまった。まったくなんてことだろう。
 それきり沈黙が世界を包んだ。僕も先輩も一言も発しなかった。やがて部屋の中に戻り、宴会が終了し、それぞれ何とかさよならの挨拶だけ交わして、別れた。


  5

 ある日の放課後を思い出す。
 埃っぽい部室。ずいぶんと斜めに傾いた夕日。ブレザーは脱げないが、ストーブをつけるほどではない気温。そんな記憶。
 先輩は棚から模造紙を引っ張り出し、真剣になにかを書いていた。壁際の机に向かって作業しているので、僕の位置からは背中しか見えない。
「なにを書いてるんですか?」
 先輩は振り向かないまま、シャープペンを回そうとした。親指の上でくるくると。しかし失敗してシャープペンは床の上を転がった。
 ペンを拾って机の上に置き、ついでに先輩の肩越しに手元をのぞいた。見ちゃだめ、とにらまれてしまった。
「だめだよ。恥ずかしいからさ」
 上半身で覆いかぶさるように紙を隠す。大きなメガネがちょっとずれてしまっている。あのころの先輩はメガネをかけていたのだ。
 先輩は演劇部でもないくせに芝居の台本を書いていた。なんでも友達に頼まれたらしい。間近に迫った文化祭でオリジナルの芝居をやりたいのだそうだ。
「先輩ってそういうの得意なんですか」
「そうでもないけど」
「じゃあ、なんでまた?」
「なんかさぁ、頼まれたら断れなくて」
 先輩の創作活動を僕も手伝うことにした。といっても直接的になにかをするわけではない。あいにく僕にはそういうセンスは備わっていない。僕に出来ることといえば、極々小さなことだけだ。
 こういう時って遠藤くんどう思う? なんていうアンケートみたいな先輩の質問に答えたり、じゃあこんなのはどうでしょう、と代替えのアイデアを出してみたり、あとは先輩の言われるままに部室の中を走り回ってみたり、転がってみたり。
 そんな僕を見て先輩はけらけらと笑いながら、少しずつ筆を進めていった。
 先輩は楽しそうだった。頼まれてやっていることとはいえ、物語を考え、それを文字にしていく作業を楽しんでいるようだった。僕にはよくわからない感覚だ。いったいどんなストーリーを紡いでいっているのだろうか。
 先輩は台本の内容をちっとも教えてくれなかった。
「どうせ文化祭でやるんでしょう? いま教えてくれたって結局は同じことじゃないですか」
「でもだめ。わたしが普段なにを考えているかとかさ、頭の中を見られちゃうみたいな気がするんだよ」
 先輩の書いた台本は結局上演されることはなかった。僕の知らないところでいろいろ事情があったらしい。僕としては先輩の頭の中を見てみたかったのだけれど。
「今日は遠藤くんにハイキックを伝授してあげよう」
 いきなりそんなことを言いだす日もあった。
「してくれなくていいですよ、そんなの」
「なにが起こっても変じゃない、そんな時代じゃない? 自分の身は自分で守らないと」
 どうも僕の言い分は聞こえていないらしく、先輩は力強く歌の歌詞みたいなことを言った。どうやら先輩はテレビに影響されているようだった。昨日はゴールデンタイムで格闘技番組をやっていたのだ。
 ほらやってみてと急かされて、僕は一応右足を振り上げてはみたものの、案の定ひざは曲がったまま腰の高さまでも上がらず、おまけに体勢を崩して無様にもすっ転んでしまった。
「だめね。そんなことじゃ」
「いやあのね、体を動かすのが得意ならこんな部に入ってないですよ」
 それは先輩も同じだと思っていたが、どうも僕が甘かったようだ。
 先輩は運動神経こそ感じられないが体を動かすのは好きらしく、小さいころには空手を習っていたらしい。そんな面影はこれっぽっちも感じられないが。
「じゃあ、見本を見せてあげる」
「出来るんですか?」
「出来なきゃ教えてあげるなんて言わないよ。ほら、ちゃんと構えて。絶対ガード崩しちゃだめだからね」
 顔の横のところで両腕を重ねるように置き、僕はやる気なく突っ立った。そんな僕を前に先輩は正対する。いくよ、という声が聞こえたなあと思ったら先輩の体がゆらりと揺れて、次の瞬間、腕が折れたかと思うほどの衝撃を受けた。あらためて僕は無様にすっ転ぶ。
「だ、大丈夫?」
 目の前で星がチカチカと瞬いた。大丈夫ですよ、と手を上げながら僕は頭を振った。なんとも見事なハイキックだった。
 それから先輩によるレッスンが始まった。先輩は実演を交えて教えてくれた。さして広くない部室の中で二人きり、ハイキックの実演なんかをするもんだから、ただでさえ短いスカートがひらひらとはためいて、そのたびに僕は目のやり場に困った。見たり見なかったりした。
 もちろん運動が苦手な僕が、そう簡単にそんな大層な技術を習得できるわけもない。そもそも僕も先輩も多分本気ではなかった。ただなんとなく時間をやっつけるように戯れていたのだ。
 ただ楽しかった。意味もなく楽しかった。
 そんな思い出の日々。
 もう二度と戻れない、あのころの記憶。


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