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人種のるつぼ、言葉のサラダ、声のスープ、知識のスープ

私が子供のころ、学校で

アメリカのニューヨークにはいろんな人種の人々が混在して暮らしているため、『人種のるつぼ』と呼ばれます

というようなことを学んだのですが、当時の私は「るつぼ」がどういうものかを知らなかったために、全く理解できなかった覚えがあります。「るつぼ」というより、英語の「melting pot」のほうがまだわかりやすいですね。
金属などを高温にして溶解させるための入れ物のことで、しばしば複数の金属を溶かして合金を作るのにつかわれるため、いろんな人種が溶け合って一体となっているさまを「人種のるつぼ」=「melting pot」と呼んでいるのです。(下記サイトの、溶けた金属が入った丸い容器が「るつぼ」です)

それはそうとして、最近は「人種のるつぼ」という言い方よりも「人種のサラダボウル」という言い方が使われるようになりました。これは、マイノリティを含めた個人が自分の個性を保ったまま、お互いを尊重して多様性の中に生きるさまを、それぞれの野菜がその形を保持しつつ同じサラダボウルの中で共存している様子に例えたものです。
一方で、サラダボウル化が進みすぎたことにより、アメリカが人種や所得、政治的信条(イデオロギー)によって分断されてしまったということが問題だといわれることもあるようです。

話は大きく変わりますが、ゴールデンウィークに金剛山に遊びに行きました。カバー画像は頂上に咲いていた金剛桜です。河内長野駅から金剛登山口へのバスは大盛況で、時刻表と関係なく臨時バスが次々と運行されていました。
バスの中も超満員だったのですが、複数の登山客グループがそれぞれかなりの大声でしゃべっていたために、声が溶け合って一つのハーモニー(和声)のような様相を呈していました。
これを聴いて、ふっと思い出したのが幼稚園で遠足に行った際のバスの中の音です。あの頃も園児たちが大声で勝手ばらばらに話をしていたのですが、試しにそれぞれ各自が何をしゃべっているかを聞き取ろうとしても、かなり頑張らないと聞き取れないことに気づいたのです。あまりに多くの人が同時に会話することによりその総体としてのハーモニーは独特の安定感を持ち、かつひとつひとつの会話を分離しづらくなるのだと思います。
これは「声のるつぼ」というほど完全に溶け合った状態でもなく、かつ「声のサラダボウル」というほどバラバラでもない、中間状態を示します。ネット上でよい例を見つけることができなかったのですが、「らきすた」のopでガヤガヤしている箇所が(人数少ないですが)やや近いように思います。

「人種のサラダボウル」と似たような発想の言葉として「言葉のサラダ」というのがあります。これは統合失調症の方の症状で、文法や一つ一つの単語は正しいものの、総体として意味をなさない文章のことを指して言います。なぜ「サラダ」なのかをうまく説明した文章がなかなか見つからないのですが、私が過去に見たことのある説明としては

通常は単語同士が相互につながり、スープのように溶け合って使われるのに対して、単語同士が独立して存在する様子を「サラダ」と表現した

というようなものがあります(出典は失念しました)。この「スープ」という表現はとてもよくできていると思います。もとの野菜の形を完全に失っているわけではなく、一方である程度はスープに溶け出して一体化している。
カボチャやジャガイモは形をほぼ失いつつあるに対し、大根は形をおおよそ保っており、にんじんはほぼ元通りの形である。溶け合い方も多様です。
個人的には「るつぼ」と「サラダ」の間は、「スープ」でいいのではないかと思ったりもします。
(アメリカには「Chili Bowl」がよいと主張する方もいるようですが、日本では「Chili Bowl」はあまり一般的ではないようにも思います)

だとすると、私が金剛山へのバスで聞いた音は「声のるつぼ」でも「声のサラダ」でもなく「声のスープ」といってもいいのかもしれません。

また話が変わりますが、ここ最近AI技術の発展がすさまじいです。試しに、AIに人間でもこたえるのが難しい質問「ボボボーボ・ボーボボのあらすじを要約せよ」という課題を与えてみました。

作者が北条司だというのは初耳ですし、戦う相手は「鼻毛組織」ではなく「毛狩り隊」なのですが、なかなかいい線をついているのではないでしょうか。
もう一つ課題として「エイケン」のあらすじを聞いてみました。

おそらく、三船伝助が大島恭平、御園霧香が幸枝、東雲千春が森村真理と、登場人物がどれも聞いたことない人物に置き換わっているのですが、これを除けばほぼ完ぺきに近いと思います。
AI以前は、コンピュータにとっての知識というのは、それぞれバラバラに存在するもので、いわば「知識のサラダ」の状態でした。つまりはインプットした情報はそのまま改変なく保存され、他の情報との組合せはなされません。よって、表記ゆれなどにも対応できませんし、または他の情報を合わせて総合的に判断するということもできませんでした。
しかし、AIは多くの情報を自らつなぎ合わせて新たな体系を作り上げていることを考えると、AIによってコンピュータ内の「知識のサラダ」が「知識のスープ」に大きく変化したように感じます。
上記のボボボーボ・ボーボボもエイケンもAIが提出した情報には嘘が混ざっていましたが、これはAIがインプットされた情報をそのまま使う以外のことができることも示しています。間違えることができるというのも、AIの重要な能力であるようにも感じました。(実用上は困ったことですが…)

金剛山の帰りに立ち寄った延命寺近くの公園。なぜ鳥居があったのかはよくわかりませんが。

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