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ゆゆ死期

 遭難して身体に水分が足りなくなった時に「おしっこを飲むことで水分を補って生きながらえる確率」と「菌だらけ且つ不快感のあるのおしっこを飲むことで身体が弱って死ぬ確率」ってどっちの方が高いんでしょうね。

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 飲むべきだそうです。どうも、みぃそんです。

 最近『死』についてずっと考えています。
 小さい頃、死について考えるたびに掴みどころのない恐怖を感じていました。とは言ったものの大きくなった今もあまり変わらない手触りでそれを感じています。
 「取り返しのつかないこと」とはよく言いますが、現世における“取り返しのつかないこと”の大体は代替でき(激上手ギャグ)、本当に取り返しのつかないことって案外無いような気がします。ゲームのデータを消してしまってもまたやり直せばいいですし、一桁間違えた発注をしてしまってもSNS上に投稿すれば高確率でウケます。
 しかし、死は本当に取り返しがつきません。死んだらマジで死なのウケるな。

 死んだら二度と喋らないし喋れない。
 これが死を考える時に一番怖く感じることです。自分が死ぬことや死後が未知なことに関しては正直あまり恐怖を感じません。ですが、「死んだ人は喋らない」、これが本当に怖い。
 僕はコミュニケーションが他人の数倍苦手なのにも関わらず他人の数倍喋ることが好きというバグったステ振りがなされているのですが、そんな僕にとって自分が会話をしたいと思っている人間と会話ができない、そして自分から何らかの主張ができないといったことは本当に怖いのです。再三言います、怖い。
 僕は昨年一緒に住んでいた祖父を病気で亡くしましたが、よく思い出すのは日常生活の何気無い会話です。外食する時は大抵突然で「今日の晩くら(寿司)行こか」と声を掛けられ(キタ!ランダム発生イベント!)みたいな気持ちで「うし、行きますわ」と適当な返事をする。そういう何気の無い会話。
 人の死を考えた時に「あの人の面白さを享受できない」といった“その人特有の個性”に触れることができない恐怖よりも、「日本中の誰しもが発しそうな当たり障りの無い言葉を“その人”が発さなくなる」といった普通の日常が一つ火を消す感覚が怖いのです。
 自分が死ぬことに関しても似たような感覚です。「自分が死ぬ」とは言いましたが、自分が死ぬということは“自分以外が死ぬ”ことなのです。死ぬことで他人とコミュニケーションが取れなくなるのであれば、それは自分が生きて自分以外が死ぬのも同じなわけです。
 それは同時に自分から外部に対して何らかの主張をできないことにも繋がります。
 例えば「『NEW GAME!』の青葉ちゃんって高校生の頃に“お菓子”のことを“おやつ”って言ってしまってその様をねねっちに笑われてそうだよね」という主張があったとしても、その声は誰にも届かないのです。自分以外が死んでいるから。こんな怖いことってありますか?

 こんなことを書きたいはずじゃなかったのに気付いたら『死』についてめちゃくちゃ書いてしまって気分が落ち込んできたので全然関係の無い話でお開きとさせてください。

 『ゆゆ式』って縁じゃなくて唯を(比較的)胸が大きい枠にしてるのめちゃくちゃすごくないですか?

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