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何故私がラジオのパーソナリティーになったのか?(まずは生い立ち編)

noteを始めたのは良いが、何を書けばいいのか悩んでいると相談したところ、note先輩の乙武さんから「生い立ち書いてみたらどうですか?」とご教授いただき(乙武さん、ありがとうございます!)早速ですが、まず、「私について」を書いてみようと思います。

しばし、お付き合いくださいませ。

昭和の東京生まれ東京育ち。午年、B型、動物占いはペガサス。結構な偏食者ですが、食べることが大好きです。(相当な量を食べます)

昔から、スポーツでも楽器でも何でも、見ていて面白そうと思ったら実際に自分がやってみたい!となる性格で、サッカー、テニス、ゴルフ、ボクシング、乗馬、鎌倉彫、釣り、などなど。

それに、旅も、ドライブも、街歩きも、B級グルメも、スイーツ巡りも好きで、かなり多趣味な方かと。

幼い頃は、自分ではあまり覚えていないのですが、泣き虫で、すぐにトイレに行きたがる子供だったようです。(トイレに良く行くのはすぐに緊張してお腹を下すから)

なので、最初に覚えた英語も「トイレはどこですか?」でした。

常に自信がなく、自分なんて、、、と思っているような、どちらかというとネガティブ思考で心配性で空想癖のある子。今の自分から考えたら、全くの別人?!

両親は元々プロデビューしていたミュージシャン。兄が生まれる前には父は喫茶店の店主、母は専業主婦となり、私が小学生になる前にはその喫茶店から両親が毎晩演奏して歌う、ライブを行うお店になっていました。

なかなか想像しづらいお店ですが、これが結構繁盛していて、丁度バブル時期だったこともあり、会員制だったのですが、連日満席で予約が取れないほど。両親の帰宅は毎晩、いえ、毎朝、日が昇るちょっと前。これも、今では考えられない時代でした。

父(ギター、ベース、スチールギター、ウクレレ、歌)と母(キーボード、歌)が演奏をしていたのは、アメリカンミュージックやハワイアン、ラテン、そして時代も戦前から1970年頃までに世界中でヒットした曲たち。レパートリー3,000曲以上で、その場のリクエストに応えてすぐ演奏して歌うという珍しいライブハウスでした。両親は歌いますが、お客様は一切歌えません。どんなプロの方が来ても、歌わせない、それが斬新で面白かったのかもしれません。

そんな環境で育ったので、自然と私も兄も幼い頃から世界中の音楽を聴き、なにせ、目が覚めてリビングに行くと、毎日、違うジャンルの音楽がずっと流れていて、それを聴きながら食事をしたり、遊んだりしていたので自然と音楽はとても身近な存在。そして楽器は私たちにとって最高の「おもちゃ」でした。

ピアノは小学生の時に習っていましたが、ギターもウクレレもベースもドラムも、ちゃんと習ったことはないけど、ゲーム機を使いこなすように、楽器を弾いて知っている曲を片っ端から演奏していく、それが楽しかったなぁ。

英語の曲ばかり聴いていたこともあり、自然と発音が身についていて、学生時代に何度か短期留学したのですが、リスニングが得意であまり英語には苦労しなかったです。これは、本当に音楽のおかげ!楽器が出来ることで言葉が通じなくても一緒に何かを演奏したり、歌ったりするだけで心が通じ合う事も学び、さらに音楽の素晴らしさを実感していました。

それでも、運命というか人生とは不思議なもので、兄は真っ直ぐ、そのまま、素直に音楽の道へ進み、今ではプロのミュージシャンとして活躍していますが、私はというと、へそ曲がりな性格な上、この環境から学んだ事は「絶対にミュージシャンにはならない!ちゃんと就職して会社員になる!」でした。やはり両親の仕事をみていて、不安定で自営業で大変!と思ったのも一つの理由ですが、自分の音楽に対しての自信が全くなく、絶対に無理!と思い、短大を出てすぐに大手デパートに就職し、社会人の道を歩むのですが、、、

今日はここまで。

だらだらとした文章ではありますが、読んでいただきありがとうございます。

自分の事を書く事はかなり難しく、随分と要約しているので分かりづらいかもしれませんが、また、追って、私がどうしてラジオパーソナリティーになったのか?まで、書いて行きたいと思います。

あっ、随時、質問なども受け付けています。お答えできる範囲にはよりますが、少しでも興味持っていただけたら嬉しいです。

mie




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