とやまの見え方・「竹取物語」、山田孝雄博士、そして越中ノ国富山人の佐脇大彦主とは?

2022年7月10日投稿

 いつもの書店で岩波文庫の書棚を見ていたら、薄っぺらな1冊がありました。全体で94ページです。本文は第56ページまで、残りは補注や付録、解説です。
 あまりにも薄くて、カバーの背表紙に折り目がつかず、斜に構えて居直っているような風体で、他の厚手の文庫本の群れに挟まって、窮屈そうにしています。たたずまいに同情して、買ってしまいました。

 それは、日本古典の「竹取物語」でした。内容は、誰もが知っている“かぐや姫”の話です。購入した文庫本は、「いまは昔、竹取の翁といふもの有けり」で始まる古文、薄っぺらだからと侮れません。
 この古文の本文だけが48ページも続いているのに、現代語訳は付いていませんでした。後悔しつつも、たくさん付いている脚注と補注を頼りに、挑戦しました。

 そして、最初のクライマックスにかかりました。次のところです。

 竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。それを見れば、三寸ばかりなる人いとうつくしうてゐたり。―中略― この子いと大きに成りぬれば、名を ―中略― なよ竹のかぐや姫と、つけつ。

 と、竹の中にいた女の子に、“かぐや姫”と名前を付けたという部分です。ここで「かぐや姫」の箇所に、脚注が次のように付いています。

「なよ竹」はしなやかな竹で、姫の姿を形容して枕詞的修飾語とする。
「かぐや姫」は、光かがやく意。→ 補注三

 と、さらに「→ 補注三」へと誘導されているので、そこへ進みました。すると、この文庫本の校訂者阪倉篤義さんによると、

 山田孝雄博士は、これを「かぐや姫」と濁音に読むようになったのは田中大秀の「竹取物語解」以後のことで、それ以前はすべて「かくや姫」であり、「赫奕」(千田注:かくえき、光り輝くさま)という漢語から出た名として、「かくや姫」と清んで読むべきだとされる。

 と、「く」を「かぐや姫」と濁るのではなく「かくや姫」と清んで読むべきとする山田説を先ず掲げ、次に

 しかし、中世の文献に徴して考えられる「かくや姫」という名が、果たして博士のいわれるごとく、この物語成立以来数百年の間行われてきたものであるかは、なお疑問であって「古事記」の迦具夜比売を積極的に否定すべき根拠もない。―後略―

 と、「かぐや姫」と濁って「ぐ」とすべきではないかと、おっしゃるのです。山田説に疑問を呈しておいでです。

 ここに山田孝雄(やまだよしお 1875-1958)博士とは、富山県生まれの国語学者、国文学者、歴史学者であり、富山県初の文化勲章受章者(1957)です。呉羽山に、お墓があります。

 そこで、山田博士の著書「昭和校註 竹取物語」の巻末の「竹取物語の女主人公の名」(山田孝雄著)という論説を見ると、博士の主張が実に細かく解説がなされていました。博士による、もっと詳しい論説があるかもしれないけれど、深追いはしません。

 実は、ここで私がご紹介したいのは、この学問上の相違の事ではなくて、もう一人の謎の越中人のことです。

 私がこの論説の経過で出てくる田中大秀(たなかおおひで 1777-1847 江戸後期の国学者、飛騨高山)の著書「竹取翁物語解」に当たってみたら、その「巻首(第1巻)」に次のようなエピソードがあったのです。

 契沖(けいちゅう 1640-1701 江戸初期の国学者)の書に、小山儀(こやまただし 1750-1775 江戸中期の国学者)という人物が細かく解説を書き、それを「抄」と名付けていた。

 それに田中大秀が、細かく書き加えていたら……、そこへ、越中人が登場したのです。ここからが、私の本題です。
 この田中大秀の記述によると、文政9年11月(西暦1826年)の日付の記述の中に

 小山が「抄」に、おのがいさゝか思よれる事どもかつゞゝ書き加へ置きたりしを、いにし年の秋、越中の国富山人佐脇大彦主、訪ひ来たられたるに、彼「抄」を見せまゐらせければ、其れ猶くはしうして見せてよなどそゝのかしつるに―後略―(千田:一部補足)

竹取翁物語解. 巻第1

 とあったのです。つまり、大学者である田中大秀に対して、「もっと詳しく書いてみませんか?」とアドバイスをする越中人がいたというのです。なんだか、世話好きの越中人気質が、率直に出ているような気もするのだけれど…、私の興味は山田孝雄博士から逸れて、この佐脇大彦主という人物にむかってしまいました。

 江戸後期のいわゆる化政文化の時代、国学者と親しむ富山の人、佐脇大彦主とは、どんな人物だったんだろう? 

 わたしの手には負えないので、富山県立図書館で調べてもらったら、この佐脇大彦主というのは、狩野探幽の手になる画を田中大秀に披露するほどの富山藩の重鎮だったのです。

 それにしても佐脇は、越中富山から飛騨高山まで、わざわざ出かけて行ったのだろうか、あるいは、大秀が富山の城下まで来た機会をとらえて、面談したのだろうか…、飛越の文化的な交流が素晴らしい。

 “物語の祖(おや)”といわれる『竹取物語』において、山田博士、佐脇大彦主と富山の新旧二人の人物が、エピソードを残しているとは、嬉しい、いや、目出度い。

 薄っぺらな岩波文庫だったけれど、侮れないゾッ。

(引用参考文献)
『竹取物語』阪倉篤義校訂 岩波文庫1970年第1刷、2012年4月第59刷
『昭和校註 竹取物語』山田孝雄 山田忠雄 山田俊雄編 武蔵野書院 昭和63年3月30日21版
『竹取物語 伊勢物語 新日本古典文学大系17』校注者 堀内秀晃 秋山虔 岩波書店 1997年1月刊
『田中大秀 第三巻[寺社考・記録]』中田武司編 勉誠出版 平成13年3月刊


 

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