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放蕩息子の兄として

すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』

ルカによる福音書15:31-32

新約聖書の中に「放蕩息子のたとえ」というものがある。ざっくりいうと、ある兄弟がいて、弟の方が父から財産をもらった途端、放蕩の限りを尽くして最終的に何もかも失ってしまった。飢え死に寸前にまでなった弟は、自らの天と父に対する罪を自覚し、息子ではなく雇い人として家に戻ろうとした。だが父親は弟の姿を見て大層喜び、もう息子と呼ばれる資格はないのだという彼に対し、上等な服を着せ子牛を屠り帰宅を祝った。ずっと父のもとで真面目に働いてきた兄は、自分が宴会する時には子山羊一匹さえくれなかったのにこれは何事かと拗ねた。その兄に対し父がかけた慰めの言葉が、引用した部分。

最近教会に通い始めてカトリック入門講座を受けている。先日はこの放蕩息子のたとえの話をした。そこで聞いた話によれば、父は神もしくはイエス、弟は罪人にたとえられている。では兄は何か?それは「裁く人」なのだという。

「裁く人」というのはファリサイ派や律法学者、聖書を読んでいない人にもわかりやすくいうと真面目でいい子で口うるさい学級委員みたいなやつ。先生の言うことをきちんと聞いて、先生がいないところで勝手にいろんなことを取り締まって仕切ってみんなから疎まれて、結局先生はバカな子ほど可愛いって感じで他の子を贔屓してたりして、私はこんなにいい子なのにどうして、そんな感じの。

自分は善人だ、という慢心から、気づいたら本来神以外には持ち得ない「裁く権利」を持つと勘違いしてしまう。警察でもないのに人を逮捕したり、悪人だと判断した人をネットリンチしたり、父のもとに帰ってきた弟が愛を受けるのを見て、そんなのはおかしいと不満をぶつけてしまったり。息子を愛し受け入れるかどうか決める権利を持つのは父であって、兄ではない。兄は今までもずっと愛されていて、飢え苦しむこともなく生きてきた。それを己の善良さからの当然の権利だと思ってしまっていた……そうも読める。だからこそ、それをしていない弟が歓待されるのを見て許せないような気持ちになる。しかし、弟は自らの蒔いた種とはいえ、兄は体験していない飢えの苦しみを味わった。息子と呼ばれる資格はないと、もう愛される資格はないと思うまでに至る苦悩があった。父はその分の愛とゆるしを与えたにすぎない。

「わたしのものは全部お前のものだ」という言葉のとおり、父は兄も弟も愛している。けれど人というのは、安定を幸福や施しだと思うのがひどく苦手ないきもので、緩急や高低がないと、無のように感じられてしまう。

このたとえについてどう思いますか、そう尋ねられたわたしは、「自分は兄のようになってしまっていた……いや、現在進行形でわたしは放蕩息子の兄です。だからこそこのたとえ話が好きです」と答えた。自分は愛されているのだと……そう思えないことも、罪人が許されるのを妬むのも慢心からきているものであって、裁く権利がないのにあると勘違いしているからであって、それってなんて救いだろう。わたしは確かに愛されていて、すでに御父のものはわたしのもので、気がついていないだけならば、それを確信できるまで考え、注意して生きればいいだけなのだから。愛はないのかもしれないと、怯えなくていいのだから。


今までの人生、わたしは家庭において損な役回りをしてきたと思う。わたしがしっかりしなければ、そう思うことが多かった。ある意味でそれは長子のさだめでもあるし、弟妹がわたしの目から見てずっとのびのび(それは幸福であるという意味ではなく、しがらみがなく、自分の人生に決定権があるということだ)生きているように見えるのが、ある意味でわたしの犠牲のおかげだとすれば……それは本当にうれしいこと。そうでないと、わたしの人生にはまったく意味がないから。

放蕩息子の兄だって、弟がいなくなってしまってから、いや、いなくなるような弟なのだからきっといた頃だってあまり役には立たなかっただろう。自分がしっかりしなければ、そう思ったんじゃないか。自分はきちんと働いて、正しくあらねばと。その結果享受している安定した人生……飢え死ぬこともないけれど、友人との宴会で子山羊を屠ることもない、そんな人生がどれだけまばゆく温かいか、目が眩んで見えなくなってしまう。

親が放蕩息子や放蕩娘に愛を向け金を出し家に置いてやるのを見続けるのは割に苦しいことだ。わたしはそういう人生を彼らに望んでいたはずなのに……彼らの人生のすべての権利が、他人ではなく彼ら自身にあることをずっと望んでいて、そのとおりになったのに。放蕩息子の兄と同じだ、妬ましいのだろう。羨ましくてたまらないんだろう。わたしが見ている現実を誰も見ていない、わたしだけが戦っている、そういう慢心がある。

わたしは放蕩息子の兄だ。わたしはたしかに、彼なのだ。

ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい。

真面目な人ほど陥りやすい「裁く人」、これになることはなんの幸福ももたらさない。正しく裁かれない(ように勝手に感じている)人々を見て苦しむだけだ。自分への愛が正しく向けられていない(と勝手に感じて)苦しむだけだ。

病気で頭がおかしいのは事実で、それは知っていたけれど、それに対して「過去の自分をゆるし、自分を愛そう」というアプローチが間違いだったのではないか、という気づきを得たのは初めてだった。これはわたしの勝手な悟りであって別にキリスト教的な考えではないというのは念頭において欲しいんだけど、結局わたしも生身の人間であり、わたしがわたしを「完全に」ゆるすということはできないのだと思う。そもそも、わたし自身でさえすべての苦しみ、すべての罪を覚えていられるわけではないし、それを知っているのが神だけなのだとしたら……わたし自身を直接にゆるそうなんていうのは酷い傲慢なのではないか。

2023年8月10日 『ゆるすということ』より

わたしがはっきり信仰を持ち始めたきっかけは、「自分は裁く立場ではない、それができるのは神だけである」と気がついたこの瞬間だったのだ、今ならそう言語化できる。わたしは、弟妹のことも、母のことも、わたし自身のことさえ裁けない。裁く人であってはならない。

それが本当に本当に、嬉しかった。



教会に通うのは生活リズムの面から見てもいいことだな、と思います。次の日曜には若者同士の交流会みたいなのがあるようで楽しみ。同じく勉強会に出てる25歳ぐらいの若者とも仲良く(?)なれたし、人と関わるのは良いことですね。これもすべて神様のお導きなのでしょう。本当に嬉しいことです。涙が出そうなぐらい嬉しいこと。これから知識を深めていくにつれわたしの信仰もきっと深まるのだろうという確信があります。入信の覚悟を決めてよかった。わたしにはカトリックがいちばん合っていたんだな、と思うし、それを感じられるこの状況に心から感謝しています。きっと宣教師たちってこんな気持ちなんだろうな。

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