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理性の中にこそ

わたしは時々「これは自分の感情を見せなくては」と思って極端な行動に出てしまうことがある。特に怒っている時。「あなたの行動がわたしを怒らせた、ということを示さなければ」というような義務感で、例えば後輩を厳しめに叱るとか、人と喧嘩したときに家を出て行こうとするとかしてしまう。

程度問題だとは思う。少なくとも、境界例の診断を受けるほどに激しい方ではないと思う(例えばお前のせいで死ぬからな!とかは言わない)。子供の頃は癇癪持ちで、それが恥ずかしくて怒りを抑える修行(?)を重ねてきたのもあって、大体の場合は怒りより先に自責や悲しみ、苦しさなどが出て怒るどころではない。それはそれで泣いたりしてて困るけど(それもやめたいよ〜)。

そうやって、普段あまり怒りの感情が湧かない(沸いても気づかない)分、沸いた時には「ああ、これは言わなくてはいけない」と思ってしまう。確かに気持ちは抑え込むより伝えた方が良い場面も多いだろう。でも本当はもっと冷静な伝え方があるはずなのに。

冷静で理性的な人になりたいし、そういう人が好きだけれど、そういう人に対して「気持ちがわからない」と思ってしまうことがある。理不尽でもなんでもいいから気持ちを激しく見せてほしいと思ってしまうことがある。だから自分も激しい行動を取るんじゃないだろうか。DVの被害者がまた加害者の元へ戻ってしまうのは、まともな落ち着いた人といると「この人の気持ちがわからない、何を考えているの? 私のことがどうでもいいから怒らないの?」となるのも少なからずあるのではないだろうか。

でも、同時に相手の感情が怖くてたまらない。少しでも怒りや負の感情を感じるとビクビクする。怒鳴られたり殴られたり、相手が私に性的好奇心を持っていればレイプされたりするかもしれないし、大切な人に対してだったら、何より見捨てられてしまうかもしれないことへの不安が大きい。

もともと感情豊かな方だというのはあるのだろうけれど、それにしたって、理想像との乖離が大きすぎる。理想を言えば、ポジティブな方向には感情豊かであり、ネガティブな方向には理性的に対応できる人間になりたい。そして実際に理性的に対応する時、そこには確かに相手への思いやりが存在するはずで、なのにどうして激しく感情をぶつけられたいと……それもネガティブなものを、そう考えてしまうことがあるのだろう。

理性の中にこそ、相手を思いやる気持ち、優しさ、道徳心、倫理観、愛、みたいな素敵なものが詰まっているはずで、そこには気持ちがあるはずなのに、ネガティブな感情をぶつけられることに言い様のない特別感のようなものを感じる。それはぶつけることに対してもそうだ。どうでもいい人に負の感情をそのままぶつけることなんかほとんどない……少なくとも私はない。でも普通は、大切な人こそ傷つけたくないから感情を抑えて対応しようとするはずじゃないか。

「甘え」というのが一番大きいんだろうな。親との関係が良好な子ほどきちんとした適度な反抗期がくるけれど、それを得られなかったわたしは他の誰かに甘えてしまって試し行動をする。私はまともな反抗期がない子供だった。そもそも親とぶつかり合うことをしてこなかった。それを取り返そうとして、感情のぶつかり合いに特別感を感じているのかもしれない。そして、その感情に恐怖があるからこそ、ぶつけた/ぶつけられた後も見捨てられなかったという安心感が麻薬のように脳に染み渡って、それに依存しているのかも。感情的にならない人は正しい……とても正しいけれど、抑え込まれれば込まれるほど、逆に簡単に見捨てられそうで……だって理性で考えたら私なんか見捨てた方がいいに決まっている……、何をどう足掻いても恐ろしい。

普通に良くないので、理性の中にこそ気持ちがあるのだと体でわかるようになりたい。今は真似っこしかできないし、その真似っこだって危ういけれど、精神科に通ってるのもあって少しずつ落ち着いてるし、1年前の私と比べるとだいぶわかってきているという自負もある。だからきっといつか私も、そういうまともで理性的で、冷静な大人になれる日が来るはずだ。

そう信じないと、恥ずかしくて生きていけない。

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