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私は「特技は何ですか?」と聞かれて答えられない人間です。

「あなたの得意なことはなんですか?」

と聞かれたら何と答えるだろう。

人間十人十色というように、いろんな答えがあるだろう。

「特技はバスケットボールです。」
「けん玉が得意です。」
「大食いでは誰にも負けません。」

こう答える人もいるかもしれない、

「特にありません」

と。

かくいう私もそのうちの1人だ。

得意なこと?特にないけど。


私は子役を経てアイドル・タレントとして活動してきた二十余年の人生で幾度となく聞かれてきた

「特技はなんですか?」

という質問にすんなり答えられたことが1度もない。
数年前までは適当に
「トランペット…ですかね」
「人並みに勉強はできます」
などとその場で取り繕った答えを声にしていたが、最近は専ら
「特にないんですよねぇ」
と答えている。
開き直ったわけではない。
私だって「得意です!」と胸を張って言えるものの1つや2つ欲しい。
欲しいから、自分の得意なことってなんだろう?って死ぬほど考えてきた。無理やり作ろうともした。でも全部得意になれなかった。
いや、得意になれなかったわけではなくて、『得意だと思えなかった』が正しい。


〇主観と客観

特技をすんなり答えられる人と答えられない人の違いはなんだろう。
けっこう悩んだあげく、自分の中のハードルの高さが違うんだと気づいた。
得意の"程度"がどういう基準に達していれば"得意"と言えるのか、そのボーダーラインの引き方が違うんだと。

つまり、『ある程度得意』なことを「得意だ」と言える人と言えない人がいる。

私はもちろん、"言えない方"だ。

じゃあ、ある程度得意なことを得意だと言っちゃえばいいんじゃないか?
そりゃそうだ。人と比べてそこそこ人よりできることは特技でいいんじゃないか。
でも、私にはそれができなかった。


昔から周りの大人に「上には上がいるもんだ、下を見て安心するな」と言われ続け育ってきた。
それは心からの期待と善意と、私の成長を願ってかけられてきた言葉だっただろう。
私も私でそれは向上心だと思っていたし、それをモチベーションにして上を目指すものだと思っていた。
だから、"事実として"ピアノのコンクールで近畿大会に進んでもピアノが上手いと思ったことはないし、"事実として"偏差値75の中高一貫校に合格しても自分のことを頭がいいと思ったことはない。
上には上がいたから。自分が1番じゃなかったから。

ただ、自分自身を客観視することはできた。
"事実として"横浜国立大学に合格したので人類を偏差値順に並べたら『普通よりは』上にはいるんだろうな。
とか、
"事実として"トランペットを吹くことができるから、トランペットを吹けない人と比べると『吹くことができる方』にはいるんだろうな。
とか。

それはわかっているけれど、東大には合格できなかったから東大生に比べれば頭は悪いし、プロでもないからプロと比べればトランペットは下手くそなのだ。

だから、「得意だ」と言うことができない。

上にいる人が1人でもいればきっと私は「得意なことは特にないです。」と言ってしまうのだ。

自分は客観的に観ている他人と比べて"1番"秀でているものが無いと知っているから。

『ある程度得意 』が腑に落ちないのだ。

昔は『私もいつかは人より秀でているものを持てるかもしれない』と期待していたけど、残念ながら世界で1番になる才能なんて持ち合わせてなかったし、世界で1番になるまで時間と労力をかけて努力する気概も持ち合わせていないことを悟ってしまったので、今は「得意なことは特にないです」なんて言っているけどいつかは、『ある程度得意』を許せたら、

「得意なことはなんですか?」

という質問も怖くなくなるのかもしれない。

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