お金とは何か 〜価値の本源〜
日経が #お金について考える というお題で募集していたので、お金とは何かということについて考えてみたい。
日本経済新聞で「今読むべきお金の本」というシリーズをやっている。
私はここに二冊の本を加えたい。アダム・スミスの『国富論』と三浦梅園の『價原』だ。今から約250年前にお金とは何かということを根源的に考えた二人の思想家の本だ。
私は、お金の価値の本源について考えたくて三浦梅園の『價原』を読んだ。そのあとにアダム・スミスの『国富論』を読んだら、三浦梅園の思想と多くの共通点があることに気づいた。世界の東の果てと西の果てに同じ年に生まれたこの二人の思想家は、お金について共に似たような思索を巡らしていた。
硬貨など金属でできた貨幣の特質について、梅園とアダム・スミスはこう言っている。
先ずは梅園から。
続いて、アダム・スミス。
二人はほぼ同じことを言っている。朽ち難い(腐りにくい)ことと、分けられる(分割可能である)ことが、通商と流通の適性を持つ所以である、と。
また、梅園とアダム・スミスは浪費家を批判する。労働を価値の根源と考えていたからだ。
最近では、アダム・スミスの『国富論』は『道徳感情論』とセットの著作であると言われている。たしかに『国富論』だけ読むと道徳的観点が抜け落ちている気がする。アダム・スミスも梅園も、当時の貨幣経済の急速な興隆に対して同じような肌感、危機感を持っていたのだと思う。梅園が「財貨控掣の權已に商賈に屬す」と嘆いた商人天下の時代にあって、アダム・スミスと梅園はともに重商主義を批判した。「若これを憂ふる人あらば一郡一縣を治んにも何とぞ人を一人にても農にかへし一人にても游手を本業に本づかしめ財貨他より入るの路を開き器械他に求めざるべきこそ肝要なれ」という梅園の言葉は価値の本源に立ち返る重要性を説いている。
アダム・スミスと梅園が語っているのは国家の経済論であって、個人にとってのお金の話ではない、と思う人がいるかもしれない。しかし、個人がお金について考える上でも、アダム・スミスと梅園の言葉は重い意味を持つ。
どちらも国、天下について語っている言葉だが、お金の価値の本源について語っていることに変わりはない。「六府」とは水・火・金・木・土・穀のことである。梅園はお金で寒さを凌いだり飢えを凌いだりすることはできないでしょう、と言っている。アダム・スミスと梅園は決して大昔の話ではない。現代の私たちが、何度も何度も立ち返るべき場所である。お金が“数字化”したり“電子化”したり“仮想化”したり“トークン化”したりしている現代にあって、価値の本源はどこにあるのか、と問い続けることは大きな意味を持つだろう。
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