Never underestimate (過小評価するな)

高校を卒業した長男について前にも書いてるが、彼は大学や専門学校には行っていない。すなわち肩書きを持たずに色々と模索をしている(もがいている?)。

そこで見えてきた日本の肩書き社会。これは変わるべき古い価値観ではないかと思う(前にこれについては書いてるが)。特にこのコロナ禍を経て既存の価値観が意味をなさなくなってきた今では。
コロナで大学などの教育機関は軒並みオンライン授業を余儀なくされ、受験した子供たちは大学に受かったものの、キャンパスに足を踏み入れることもない。日々、自宅でPCで学業を進めていくことに疑問を持つ子たちはきっといるだろう。
学業から一休みしたい、学校に通えるようになってから学業を再開したいと思う子とかいるのではないか?高校から大学の間に時間をとって学業以外に目を向けてみたいと思う子供たちが一定数いるのではないか?
そんなことができる余裕を国が子供たちにあたえてもよいのではないかと思う。
映画の鑑賞券や美術館の入館費ひとつをとっても「一般」「大学生」や「学生」である。その昔、学生は学費などのお金の工面の苦労が学業を生業とする身分に対して考慮した金額の区別だと思うが、今の時代にその区分はいるのかな?
習慣化した区別方法が知らず知らずに肩書きにあてはまらない同年代の子供たちを「身分のない人」として過小評価してないだろうか?

少し話は変わるが、森元会長の「女性が多いと会議が長引く」的な発言も彼は差別している気はさらさらなかったと思う。なぜなら彼の時代はそのような発想が「当たり前」だったから。この「学生」区分もそのような「当たり前」の中で存在しているが、現代に適した区分なのだろうか。高校卒業したら大学や専門学校に進学すれば「学生」、しなければ「一般人」にと、ふるいをかけることなく、「一般人」と「学生」の間を楽しむ時期があっても良いのではないか。区分は単純に年齢で分けたらどうだろうか(それを実行しているところもあるが、まだまだ主流ではない)。

そもそも肩書きというのはやっかいなものである。肩書きがあれば何者かになれた気がする、いや何者かになれた錯覚を起こす。何も成し遂げていないことが大概なのに。高校を卒業してしばらくは何者にもならずに学業から一息ついてもよいのではないかと。次の人生は何に費やしていくのか、そのコマを進める前にシンプルに若者として時間を謳歌しても良いのではないかと。

肩書きがないというプレッシャーにおされて子供が自分を過小評価するようにはなってほしくないなと心から思う。

「起業家」という言葉をもてはやすのならば、子供たちがより自由な発想そして行動ができる社会を私たちが率先して作っていかなければならないのではないか。


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