ときには昔の話をしようか

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 リミテッド周りの環境が落ち着いたこと、すこしまえに死にかけたこと、数年ぶりにDMvaultを開いたこと、小さな回顧録を気づけば書き上げてしまったこと、カ-ゲーマーになってからの人生のほうが長くなることetc...いくつかの出来事が重なって、今回はゲームの話ではなく私自身の話を振り返りたくなりました。
 私がリミテッドに取り組むようになるまでの話です。ありふれたカードゲーマーの回顧録。すこし長くなるけれど。


1.リミテッドを始める前に

 カードゲームを始めたきっかけは中2の初夏、友人にDMの店舗大会に連れ出されてのことでした。小学生時代になけなしの小遣いでパック買いをし、ありあわせのデッキで友達と遊んだ経験しかなかった私は、「ガチデッキ」「環境」「カードショップ」といったカードゲームの文化に初めて触れることになりました。友人曰く「今の環境ならヴァルディビートにも目がある」

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永遠のジャック・ヴァルディ。スピリット・クオーツという神に作られた宝石の種族というだけあって、洗練された魅力がある 
ちなみにヴァルディビートはメタ外の地雷デッキ

 昔遊んでいたカードがどうも強く使えるらしい。
 そう聞いた私は足りないデッキパーツをショップで買い集め友人と店舗大会に参加しました。参加時のHNは「チヒロ」。かつて名前を読み違えられたものを別名義のように使い始めたものでした。
 以降没個性的かつ性別もあやふやなこの名前を形を変えながらも気に入ってずっと使っています。

 初戦で友人と当たり私のヴァルディは彼のマルコビートのリソース量にあっさりと負け、そのマルコが常連の圧倒的なカードパワーのNエクスに蹂躙されるのを見て悔しさを覚えた私は、当時の最新弾を思い切って箱買い。
 目玉の勝利セットをそろえて気をよくし、私はDMを本格的に始めていきました。

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通称「醤油」「勝リュウ」勝利セットの一体でマナを縛る効果が強力。その後DM競技シーン引退までずっとお世話になるとは全く思っていなかった

 勝利セットを使った超次元ビートダウンをなんとか工面し店舗大会に参加し始めた当時、パワーカードであった「吸い込む」「永遠リュウ」「ガイアールドラゴン」等があまりにも高価かつ希少で、掘り出し物の傷アリ永遠リュウ2000円に感動した記憶があります。
 地方のカードショップでは強力なカードの流通自体が稀でした。

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ふざけた名前だがバウンス&サーチでSトリガーつきのパワカ 
四枚揃えるのに半年近くかかった思い出

 ショップに友人と入り浸るようになった私は当時のエリア権利戦、プロモカード争奪戦に注力しました。
 私の手持ちデッキはショップの常連であるひと世代上のプレイヤー達が本気を出してNエクスなぞ回された日には全く勝ち目がないデッキでしたが、彼らの手加減もあって不揃いなカード資産ながらもゲームを楽しむことができ、私はDMに魅了されていきました。

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当時最強のNエクスの片割れ。パーツが高価すぎて回し方すら知らず、これらをぶん回す常連たちを憧れと畏怖の目で見るばかりだった 

 高校生になっても店舗大会に参加し続けていた私は近場でCSが開催されることをDMvault経由で知りました。このころにはvaultの活用もあって高価なデッキをフルパーツでそろえることはできずとも、いっぱしの環境デッキをいくつか所持することができていました。
 友人を誘うも怖そうだからヤダ、と一蹴され緊張の中ひとりで参加し、持ち込んだ黒赤緑モルトが運よくベスト4につれていってくれました。

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DMvault経由の文化でデッキ選択した記憶 いわゆるvault民としての思い出もnoteが一つ埋まる(vault大会とかhot decksとか) CSも当時は都内のみのイベントで地方の高校生には雲の上の話だった

 この経験は大きく、大学受験とマナロック・ドラゴンの登場でDMをひとたび離れた私が、上京した友人たちからCSに積極的に参加していると聞かされてDMに復帰することに一役買ってくれました。


 ポジティブな面で競技DMとの付き合いを言えばここまでですが、高校時代に突如として「呪われた」こともカードゲームにのめりこんだ大きな理由でした。
 最敬の祖母の死か、偏差値が高いだけ、の人間に絶望したのか、はたまた未解の病か。原因はいまだわかりませんが、それまで順調だった学業に関心が持てなくなった私は、空白を埋める如くゲームに没頭するようになります。ゲームに没頭している間は理不尽な現実から逃れられるから。

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ギフトマナロでゲーム崩壊。あまりにも先投げ理不尽カード 実際引退した

 直近でも死にかけようとゲームを続けている根源的な理由は、思い通りにならない自身が、ゲームと一蓮托生だからなのでしょう。結局大学受験にも関心が持てなかった私は一年の浪人を経て、かりそめの大学生となります。


 上京した私は早速目の前のGP4thを目標に調整を始めました。
 ちょうどこのころからCSの開催数も爆発的に増え始めていました。

 GWに友人たちと下宿で合宿を開きCSをはしごし、GP前日のCSで見かけ教えてもらった緑単ループにほれ込み急遽持ち替え。
 私は予選で敗退となったものの調整に参加した友人たちは予選抜け、緑単を握った友人(ヴァルディを勧めてきた彼)はベスト32と大健闘でした。

 GPでは振るわなかった私の緑単もその直後のCSで優勝。チームCSでも優勝、入賞複数と怒涛の勢いでした。
 ものの半年ほどの期間ですがこの時期にDMプレイヤーとの交友が一気に広がりました。

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緑単の中心カード。ありがとうベイBジャック

 しかし、それからのCSでの優勝は遠いものとなりました。
 入賞は数あれど優勝には至らず(記憶が確かなら今日まで優勝はないです)。チーム戦では関東有数の強豪プレイヤーと組むことも数あれど結果はふるわないものでした。

 トップメタのデッキの練度を上げ、メタ読みをし、対面練習を徹底してもなお優勝はできませんでした。
 私は次第に、ともに調整し、チームを組んでくれる友人たちに引け目を感じるようになりました。勝てないことへの申し訳なさが競技を続けるうえで重くなっていったのです。上京から2年が経とうとしていました。


2.転機

 DMの競技シーンには参加はしていたものの、勝ちきれないことへの申し訳なさ、虚しさを募らせていた私はHSに食指を伸ばしました。というのも、MTGはより費用がかかるイメージが強く(当時はMTGアリーナはなかった)、無料で始められるHSの気軽さが勝っただけなのですが。

 先の構築での事情もあって0からデッキを作成し対戦する、技量がモノを言うリミテッドに興味が湧いた私はHSの闘技場配信を追うようになります。

 配信を見てpick感覚、テンポ、リソースなどの大局観を吸収することで闘技場の収支がプラスとなったとき、これまでの積み重ねが形になったことへのかみしめるような喜びを覚えています。

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凍てつく玉座スタート デスナイトとコイツがすごかった。
ローグが得意になれたことは当時見ていたニコ生の影響が大きい

 関東圏のDM競技界隈でのイカサマ、賭博文化等にも辟易していた私はこの時期以降、構築の競技シーンからは完全に身を引きました。
 以降DMでシールド戦が実施されたCSにふらりと出て何回か入賞したきりです。DCGに本格的に移ることになったのは当時の競技環境に依るところが大きかった。

 DM競技時代の親交は現在も続くものが多く(ヴァルディの彼もそうですが地元の常連の上世代、緑単を教えてくれた友人、愛すべき馬鹿等々...)、   当時のプレイヤー達が今でも形を変えて活躍している姿を遠巻きに見て応援しています。

3.そしてリミテ狂へ...

 闘技場での成功経験に味を占めた私はあこがれのMTGに手を出しました。
 目標は毎年夏季に開催されていたGP千葉でした。当時の主戦場はMO。
ゲームをするにも金がかかり負ければ金も資産も消えていく闇のゲーム。

 実際に箱を開けて練習するにはあまりにも費用がかさみすぎるため、個人でリミテの練習をするためには対面を捕まえて仮パックを作成するか(剥いたパックを保存して使いまわすこと)、MOのシールドリーグで勝ち越し、リーグを周回するしかありませんでした。

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まじめに参入したのはだいたいドミナリア これはすごいハゲ
完全に余談だがGP千葉のたびに練習相手として召喚していた友人もハゲ

 練習の際は個人の努力では全くどうにもならないため、rizerのtwitch配信を全力で追いかけていました。リミテッドにおける言語化能力の重要さをこの配信から叩き込まれたと思っています。

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畏れ多いが間違いなくリミテッドの師 
次のリミテGPがあったら間違いなく見に行く

 初年度GPは形にならなかったものの2年目にはMOのリーグを周回可能にし、以降GP千葉の使用セットである基本セットはMOリーグで50週↑はしていました(現実で購入すると20万近い)。
 MTGを通して調整コミュニティに入れていただいたこともあって、リミテッドの地力をさらに上げることができました。


 このころ2pickレートが始まりました。
 シャドバはリリース時から遊んでおり、一切課金せずに2pickのアリーナ周回で遊んできたこともあって、本腰ではないものの、レートも軽く遊んだ記憶があります。

 MTGのGPも終わり大学生活がひと段落したレート4期に、ベスト16には届かずもレート杯の権利を得て、pickチームの立ち上げにも関わることになりました。pickチームではコーチング活動も行い、当時のメンバーからは先生と呼ばれるにいたります(私はかねがねやめてくださいと言ってきましたが。

 しかし、結局私はどのリミテッドの世界でもタイトルを得ることはできませんでした。


 ときにDMのシールド戦決勝卓で友人と当たろうとも、ときに晴れる屋の神決定戦ドラフトまで勝ち上がろうとも。
 GP4-1で迎えた6回戦であっても、50万のプロモがかかったポケカシールド決勝でも、JCGの決勝トーナメントでも、あるいはpickレート杯であっても。


 純粋に実力が足りなかった。MTGに関してはきっとそうなのだと思います。けれどもリミテッドでももっている人間とそうでない人間の差を感じずにはいられませんでした。ボムレア、Sトリガー、金虹の差。


 ここからはもうひとつの回想につながっていきます。
 私が構築勢に一種の尊敬と距離をもって付き合っていること、チーム戦に断りを入れなければ参加できないこと、引き弱の事実から抜け出せないこと、どこかゲームへの取り組み方が常軌から外れつつあることに。

 結局全力で取り組み続けているとは思うのですが、バッターボックスに立ち続けているうちに、リミテッドの舞台そのものがなくなろうとしています。

 就職後摂食障害を起こし、マジで動けなくなるところまで行き死にかけ、現在休職2か月目です。
 人間突如死ぬこともあるのだなあと漠然とした死が目の前に来ることではっきりとしたからか、あるいは認知療法の薬の作用で人格がバグってるからか、はたまた先細りした目の前の選択肢を整理したかったからなのか。

 判然としませんが自身の半生でもあるカードゲーム史を足早に振り返ってみたくなったのでした。こうして振り返ると十分友人に恵まれた半生で悪いことばかりじゃないな、とも、書き上げてから思います。

 この先のことは全く分かりませんが私がゲームをやめることはきっとないでしょう。どうか未来に幸よあれ。




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