みんながメディアになれる時代に~私と「ゴールデンスランバー」とメディア~

夏休みの宿題を最後の一週間にやる計画性のない小学生だった私は、
大学のレポート課題を提出日前日の深夜に泣きそうになりながら書く計画性のない大学生に成長し、
キナリ杯の締切日に焦っている計画性のない社会人になってしまった。

焦って書いても納得のいく文章にならないのではないか、文章のまとまりがなくなってしまうのではないか…という不安もある。

だけど、やっぱり。
ある本との出会い。
そこから私は何を感じたか。そしていま、私が考えていること。
書きたい、伝えたい、という強い気持ちが沸きあがってくる。
頑張って書こうと思う。

私と「ゴールデンスランバー」

私は、ある一冊の本に影響を受け、大学で専門的に学ぶ学問を決めた。 
この本との出会いは今の私を構成する重要な要素である。

その本とは、伊坂幸太郎著作の「ゴールデンスランバー」である。
ご存知の方も多いと思うが、簡単にあらすじを紹介する。

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ごくごく普通の成人男性、青柳雅春(あおやぎまさはる)は、ある日突然(本当に突然)、首相暗殺の犯人に仕立てあげられ、何がなにやら分からぬまま追われる身に。
「ゴールデンスランバー」は、濡れ衣を着せられた男の壮絶な逃避行を描いた小説である。

逃亡する青柳君の足かせとなるのが、メディアによる報道である。
テレビの報道は口々に青柳雅春が首相暗殺の犯人だと叫び、身に覚えのない証拠や目撃情報が飛び交い、ワイドショーには憶測が溢れる。青柳君はどんどん逃げ場を失っていく。

この小説の中で、印象的な箇所がある。
青柳雅春の姿に迫ろうとするメディアは、彼に関係する人物に近づき、彼に関する多くの情報を得るが、青柳雅治に対する肯定的な情報は、まったく発信されない。
以下は、その状況に対して書かれた箇所である。

「ただ、マスコミとは、報道とはそういうものなのだ。嘘はつかないが、流す情報の取捨選択はやる。(ゴールデンスランバー P.447)」

私はこの作品を読み、報道やメディアについて強い関心を抱いた。

これまで、よく気に留めなかったあのニュース。
容疑者といわれ、容疑を否認していたあの人。
本当に犯人だったのかな…?
そしてその後、どうなったんだろう。

マスコミや報道。
それらが映し出すものが、真実のすべてではないかもしれないと、メディアについて考えるきっかけを与えくれた本である(青柳君がどうなったか、気になる方は、是非是非「ゴールデンスランバー」を読んでください!)。

この本にビビビッと刺激された私は、大学でメディア社会学を専攻した。

そこで私が学んだことを超コンパクトにまとめると、
「メディアが発信する情報は、現実の中からある意味を持って選び取られているもの」
そして、
「メディアは何を伝え、何を伝えないかの取捨選択をする」 
ということである。

これをゴールデンスランバーに当てはめてみる。青柳雅春に対して好印象を与える情報は発信されず、彼が犯人であるという側面のみの報道がなされた。つまり、メディアはたくさんの情報の中から、「青柳雅春が犯人である」という意味を持つ情報のみを選び取っていた(情報の取捨選択)ということになる。

メディアは嘘はつかない。
だけど。
何を伝え、何を伝えないかの取捨選択はするのだと本から知り、学問から学んだ。

みんながメディアになれる時代に

メディア、メディアと書いてきたが、そもそもメディアとは何か。
私が大学で読んだ本には、「メディアとは情報を伝える媒体である」と書かれてあった。

と、すると。
今は万人がメディアになれる時代だ。
誰でも簡単に情報発信ができる。
私のツイートだって。
あの子のインスタグラムの投稿だって。
彼のストーリーだって。
これらはすべて、情報発信を行う媒体、すなわちメディアだ。
この令和の時代には、みんながメディアになれる。

投稿一つにしても、何を投稿するかしないか、事前に選択しているし、
文字を書き込むといった行為や絵文字などの情報を加えることで、その人独自の切り口の情報になっている。

そして、情報を受け取る人の反応も様々だ。
「私はそうは思わない!」という人。
「そんなことを思うなんてあなたはおかしい」という人。
「育ちが悪いからそんなこと言うんだ」という人。
そんな言葉を受けて、悲しくなる人がいる。

でも、数百字のツイートからわかること。
数秒のストーリーからわかること。
そこからわかることはごく限られたことだ。
投稿した本人にしかわからない背景もあるだろう。
それが、その人の全てじゃないし、出来事のすべてじゃない。
その人の観点で現実の一部を切り取った「情報」だ。

 メディアが溢れる時代だからこそ、
メディアから発信される情報は、誰かの目を通して切り取られたものであり、
「それがその人のすべてではないこと」
「たくさんの現象の中から取捨選択されたうえで選ばれたものであること」を私たちはよく自覚しなければいけないんじゃないかと、私は思う。
見えることがすべてじゃない。

これからの未来に、沢山の「情報に困る青柳君」を生み出さないために。


追記:これが私の初めてのnoteです。文章を書いて発信する、という機会をつくってくださった岸田さんに感謝いたします。






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