連載小説 マリアと呼ばれた子ども 第3回

実は僕の家には、父親の代から通いで家事を手伝ってくれる、大島さんという高齢の女性がいる。まだ二十歳を過ぎたばかりのミッチーが嫁いだ頃は、毎日のように通ってもらっていた。大島さんはいつも白髪混じりの長い髪をお団子に丸め、どっしりした体格に、真夏の一月ほどを除いてほぼ一年中、地味な木綿かウールの着物に割烹着かエプロンを着込んでいる。朝から夕方まで一日中、クルクルとよく働く女性だ。一見無愛想で無口に見えながら、おしゃべりに火がついたら止まらなくなる。家事のこと、鎌倉のことを語らせたら一家言あるからだ。
大島さんはミッチーと仲良くおしゃべりしながら、家事のあれこれを手に取ってミッチーに教えてくれた。古都鎌倉に残る伝統野菜や、海岸端だけに豊富な魚介類の旬の料理方法はもちろん、名刹や旧跡のことなども伝えてくれていた。
ミッチーがこの家で初めて迎えた夏の土用には、大島さんは竹で編んだ大きな盆ざるを何枚も取り出した。この盆ざるの上に、6月に入ってから塩漬けにしておいた大量の梅を一つ一つ丁寧に並べて、庭で天日干しにするのだ。天日干しが終わったら、塩揉みしてアクを取った赤紫蘇を併せて、本漬けする。良い匂いに漬かった梅を一つ一つ盆ざるに丁寧に並べながらミッチーは、大島さんが「梅仕事」と呼ぶ作業を、心から楽しいと思っていた。
梅仕事はまず、行きつけの八百屋で梅を品定めするところから始まった。少し青いところの残った、黄色くなりかけの梅が最高に美味しく漬かるのだ。自宅に届けてもらった梅の実を一つ一つ楊枝でヘタを取り、度数の高い焼酎を染み込ませたガーゼで丁寧に拭いていく。
梅の総量を量ったら、漬け込む粗塩の分量を決め、正確に計量しておく。梅を漬ける瓶に粗塩を適量敷き込み、梅を載せ、後は粗塩と梅を交互に敷き詰めていった。最後は木蓋を嵌め、漬物石を乗せて、冷暗所で土用まで寝かせておいたのだ。
大島さんと開けた瓶には、綺麗な上澄みが出来ていた。「梅酢ができたわね。」大島さんは機嫌よい声を上げて、杓子で梅酢をせっせとガラス瓶に移して行った。「これは夏場の和え物に重宝するのよ。」
梅仕事は手間暇がかかるけれど、可愛い我が子を育てているようで、愛情がこもっていた。実家の母親からも梅仕事は教わっていたが、梅酢を夏場に和え物に使い回すなど、大島さんの無駄のない家事の手はずに、ミッチーは感嘆するばかりだった。

ミッチーは若かった上に元々生来の好奇心旺盛な性格も手伝って、家事情報も鎌倉の情報もどんどん吸収していった。ミッチーが生まれ育った埼玉県の旧大宮市は内陸部にあった。そこでは野菜は豊富に採れるけれど、海の魚介類は獲れない。嫁いだばかりのミッチーは湘南鎌倉で獲れる豊富な海の魚介類を初めて目にしては、その度に驚いた。さらに、例えば同じ魚でも季節によって違う料理法があることなど、大島さんから教えられて、その奥深さに興味津々だった。
ミッチーがこの家に嫁いでから5年もすると、大島さんからいろいろ仕込まれたお陰で、ミッチーは一人でも家事全般が不自由なく回せるまでになっていた。大島さんの高齢のせいもあり、通いは次第に週3回から2回ほどに減っていった。
ところが、臨月の義妹を預かって出産後2ヶ月ほど面倒を見たときは、大島さんに無理を言って週5日ほど通ってもらっていた。大島さんは男の子を3人産んで育てた経験がある。初産を不安がる義妹を励ましながら、産前産後の面倒もしっかり見てくれた。その様子を側で見ていた僕でさえ、義妹と大島さんが実の親子かと見間違えるくらい、大島さんは親身になってくれた。
義妹は難産の末、帝王切開でマリアを産んだ。病院から母子ともに退院して来たとき、マリアは生後10日ほど経っていた。
「おかしいわねぇ。こんなに小さいのに、もう寝返りしようとしてるわ、この子ったら」そう言いながら、大島さんはマリアの背中の辺りに少しだけ丸めたハンドタオルを当てた。
「こんなに小さいのに寝返りしたら、大変なことになるから、こうしておくわね、でも安心してね。私がちゃんと見張ってるから!」不安がる義妹とミッチーに、大島さんはわざとお茶目なウィンクをして見せた。

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