連載小説 マリアと呼ばれた子ども 第9回

マリアが幼稚園や保育園、小学校に通っていないと知ると、心配してくれることが多い。僕が馴染みの大手出版社の週刊誌の編集長も、マリアのことをそれとなく心配してくれたのだろうか。男性のピアノ教師を紹介してくれた。30歳代後半の、葛城渉という、まるで俳優のような名前である。住まいは僕の洋館から車で10分くらいのところにあるという。東京藝術大学で器楽科を学び、自宅でピアノ教室を開いて生徒にピアノを教える傍ら、近代オペラなどの作曲もしている。
マリアが4歳の誕生日を迎える前、編集長の宮崎氏の紹介で、葛城先生が一度手ほどきをしてくれることになった。葛城先生のお宅まで僕が車を運転して、ミッチーとともに出向いて行った。
約束の時間に瀟洒な洋館の呼び鈴を鳴らすと門塀が開いて、「先生がお待ちしておりました。」と、お手伝いの女性が出迎えてくれた。玄関に入ると、年齢は30歳そこそこだろうか、華やかな柄のワンピース姿の葛城夫人がにこやかな表情で「いらっしゃい」とマリアの顔を見つめ、「こちらにどうぞ」と言うと、私たちはグランドピアノが二台並ぶ、ピアノ部屋に続く応接間に招き入れられた。
お手伝いの女性が手際良く、お茶とケーキのセットを綺麗に並べている。
「やあ、ようこそいらっしゃいました。葛城です。編集長の宮崎さんからお話を伺っております。宮崎さんの雑誌で昨年、ちょっとしたエッセイを毎月連載していたもので。エッセイと言っても、音楽絡みのつまらない駄文ですが。」
葛城氏はにこやかで物腰が柔らかく、いかにも人が好きだという雰囲気が漂っている。僕は葛城氏のことを音楽一筋の少し気難しい感じのする、芸術肌の人間だろうかと、勝手に想像していたが、見事に裏切られた感じがした。音楽を愛し一途に学びながら、周囲の人間や日々の生活を大切にして丁寧に暮らして来たという、誠実で温かい人柄がこちらに伝わって来るようだった。
僕は簡単に自己紹介をすると、続けて自然に「マリアを今後、よろしくお願い致します」という言葉が口から出て来た。
葛城夫人がにこやかな表情でマリアをピアノ部屋に招き入れながら、僕たちに向かって
「まあ、お茶でも飲みながらどうぞ、ゆっくりお寛ぎください」と勧めてくれた。
マリアを葛城氏に預ける間、僕たちは応接間のソファに腰掛けて、葛城夫人と世間話をしていた。
聞けば、葛城夫人はミッチーと同じ短大のピアノ学科を卒業した、後輩だった。世間は広いようで狭いものだと、僕は改めて知った。夫人とミッチーが短大の同窓生だと知って、お互いすっかり気持ちが打ち解けてしまった。
夫人の話では、短大の一年生の時、ピアノ教師として赴任した葛城に見初められて、結婚を前提とした交際がスタートしたという。
「あの人はあのように、普段はにこやかで穏やかな性格ですが。。。ピアノに向かうと人が変わったように厳しくなって。。。ふ、ふ、ふ。私も何度泣かされたことか。特に苦手なバッハの曲を練習する日は、【あ、今日も葛城先生のシゴキが待ってる】と思うと緊張して、朝食も喉を通らないような思いでしたよ。それなのに、私に告白した時はか細い声で、ハンカチを握り締めた手が震えてるのがわかって。。。その姿を見たらなんだか可愛らしくなってしまって、つい交際の申し込みをオッケーしてしまったんです。」
そんな、たわいもない話をしているうちに、マリアの初めてのピアノレッスンが終わった。
「マリアちゃん、こちらにどうぞ」と、夫人がにこやかな表情で手招きして、マリアにソファを勧めた。マリア用に麦茶と小さいサイズのケーキが用意されていた。「ありがとう」と言うとマリアは、すっかりリラックスした様子でソファで寛いだ。
葛城氏はピアノ部屋から軽く手で合図しながら
「立ち話でなんですが、こちらでちょっとお話がありますので」と言って、僕らを招き入れた。
僕たちが入室すると、葛城氏は防音室になっているピアノ部屋のドアを閉めると、こう言った。
「僕は生徒の親御さんにあまりこのようなことをお勧めしないのですが。。。お嬢さん、マリアちゃんはたぶん絶対音感の持ち主です。つまり、耳が良いというか、敏感というか、少し過敏なんです。日常生活を送る中でも、雨粒の落ちて跳ねる音さえも一音一音がドレミファの音階で聞こえてしまうので、普通なら気にならない音、犬の泣き声などもすべて、ドレミファの音階で聞こえてしまうんです。普通の子どもより日々の暮らしの中で疲れやすかったり、人混みを異常に嫌ったりということもあると思いますが、それは絶対音感の持ち主特有の悩みなんです。反対から言えば、早いうちから音楽の専門教育を受けると才能が開花するかも知れませんので、可能性として頭の片隅に覚えておいて頂けたらと思います。」
葛城氏は続けて、こう言った。
「マリアちゃんはたぶん、一度聞いたメロディは記憶してすぐ再現することができます。これも稀に見る才能ですから、やはり早いうちから音楽の専門教育を受けると才能が開花するかも知れませんので。」
僕はミッチーと顔を見合わせて目配せすると、どちらともなく葛城氏に再度、レッスンを受けたいと申し込んでいた。葛城氏は少し安堵したような表情を浮かべると「喜んでご指導させて頂きます」と応えてくれた。
それから、マリアはミッチーが運転する車で毎週のように、葛城氏のピアノレッスンを受けるようになった。
葛城氏のピアノレッスンを終えて帰宅すると、マリアはいつにも増して上機嫌でリラックスした表情を見せたものだった。


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