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「〜を読む」を読む

松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」
長谷川櫂氏の著書「奥の細道を読む」を読んでみた。
いやいや、俳句の奥深くを知り自分の創作に役立てる目的などと、大それた事では無い。
芭蕉の旅とは何だったのか、それを追ってみたいと思ったのだ。

奥州は歌枕となる場所が多く、一目見たいとの純粋な「風雅の旅」でもあったようだ。そこで芭蕉はみちのくをどう詠んだのか。

今でこそ「俳句」というが、当時は俳諧、つまり連句であって、今で言う俳句とはその発句を意味する。
この本によると、芭蕉の奥の細道は四の構成に分かれていて、大筋でそれは連句「歌仙」の面影を有していると言う事だ。
引用してみる。

深川ー白河の関【旅の禊】
白河の関ー尿前の関【歌枕巡礼】
尿前の関ー市振の関【太陽と月】
市振の関ー大垣【浮世帰り】

これが
初折の表
初折の裏
名残の表
名残の裏
に、あたると言う。

「歌仙そのものが旅に似ている。長短の句を次々に付け合う連衆にはつねに前へ進むことが求められる。すでに使われた言葉を用いたり、前の趣向に戻ったり、後戻りは許されない。芭蕉自身、三十六句からなる歌仙について「たとへば歌仙は三十六歩なり。一歩も後に帰る心なし。行くにしたがひ、心の改まるは、たゞ先へ行く心なればなり」(土芳『三冊子』)と語っている。  歌仙を巻く心構えとして弟子たちに教えた「一歩も後に帰る心なし」とは『おくのほそ道』の旅にのぞむ芭蕉の心でもあっただろう。」


歌仙の心得。もっともなりと思うが、実に苦しいのだ。ネットなら順番が来ても寝たふりを決め込んだり、大変で、思わず廊下で爆睡する人もいる。

歌仙の面影を入れながら、芭蕉はこの旅の中で、苦しい事の多い人生であるがゆえに軽やかでありたい、といった「かるみ」を体得したという。

歌仙を巻くというのは実際苦しい。その歌仙をなぞらえるように旅の歩を進め、人生にはかるみが大切と、その境地に辿りついた事がこの「奥の細道」の真髄なのだろう。

さて、巷で噂される「奥の細道は諜報活動が目的にあった」について少しwww

確かに俳諧以前にあった連歌の連歌師なる人々の中にはそれで比護を受けた者もいると言われている。
戦国時代、合戦の前に出陣連歌なるものまで行われていたわけで、方々を旅して連歌会を仕切る連歌師は目にできる、耳にできる情報も多かったはずだ。
歌を詠むだけで食っていけるかと言えば、さすがにそれは難しかったと思う。

一方芭蕉が活躍した時代は江戸元禄。文化芸術が花ひらいた時代である。趣味教養に留まらず弟子を取り生業として句を詠む業俳といういわばプロには、弟子の立場として支援を行える裕福な町人や武士が少なからずいたようだ。
芭蕉にもしかり。

この旅がミステリアスに言われるのは、今の時代に当てはめているからだろうか。業俳であった芭蕉が高みを目指して奥州を旅する事に何ら不自然さは無いとわたしは思う。

話が逸れたwww

芭蕉は旅を続け句を詠み、最終的に「幽玄清閑」と評される作風を確立し、今尚その名が廃れることは無い。
それだけは間違いない事だろう。

感想とも言えない雑な文章になったが、ざっくりと書いてみた。


#芭蕉 #要は草さんに暗に勧められたと言えなくもない

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