見出し画像

振り返り

 それ程気にする必要は無いと思いながら、今回ふたつの言ってみれば連作を半ばドキドキしながら投稿した。

 『桔梗』『葵』は過去作『流れは塵と共に』の続きのような位置付けだった。
 『桔梗』の冒頭に記載したように、そもそもこの小説はその中にある種の差別を潜ませている。これは現在もタブー視されていることを考えれば、わたしにとって物語として表現することが精一杯だった。
 わたしが歴史の勉強を始めた動機も、今考えるとこの問題について調べてみたいと思ったからかもしれない。
 比較的顔の広い知人のところに、ある女性の縁談を世話してほしいという話があった。どうにもいよいよというところで破談になってしまう、ということだった。平成も10年近く過ぎた時代であっても尚、ということだ。
 タブー視されているこの差別問題は現存する。

 今、わたしが何について語っているのか。少しもわからない世代もあるだろう。『同和』と書けば聞いたことはあるだろうか。
 誰もが閲覧可能な場所でこれを書くことはどうなのだろうか、と思ったが、半年以上noteを続けてきて、ここでなら多少なりとも触れることは可能だとわたしは感じた。ただそれでも、今この文章を書くことで傷を思い出す人がいるかも知れない。それをわたしは恐れている。

 物語として描いたこの作品。今回は『桔梗』で書いた詩のラスト五行に思いを込めた。
 こんな理不尽なこと、と言ってしまえば簡単だ。ただそれならば何故、現代においてもこの問題に苦しむ人がいるのだろうか。正しい認知がなされていないからかも知れない。だからわたしは調べた。それでも知りえたことは、その片鱗だ。タブー視することで、見えなくなっていることが多いのだろう。
 差別問題はこればかりでは無い。他にもさまざま存在する。

 この問題を調べることでわたしは痛感した。当然のことながら歴史には諸説ある、ということ。そして真実を確定することはとても難しいということ。
 更に歴史を語る時、今の感覚でその良し悪しを判断するべきではないということ。それは古代にいけばいくほどそう感じる。
 人は見聞きし、経験したことに基づいて思考を巡らせる。学習歴の無いところに思考は届かないからだ。
 同時に、その頃の思考の成熟度を借りてジャッジをすることも、おかしな答えを導くことになると感じている。
 結局のところ、歴史は未来を見据えた時の学びや教訓。それに尽きるのではないだろうか。

 『流れは塵と共に』これは純粋なフィクションだ。そこにわたしが何を込めようと、読んでくれた方が感じてくれたことが全てだろう。それでいい。けれど、誰でも閲覧可能な媒体で今、これを書くことができたことに感謝したい。


ありがとうございました。

(この文章を書くことで傷を思い出す人がいるかも知れない。それをわたしは恐れている。と書きました。そう感じているということを、重ねて記載したいと思います)

もしも何か問題があった場合は、この記事は削除いたします。

スキもコメントもサポートも、いただけたら素直に嬉しいです♡