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今日は5月5日。祖母の誕生日です。生きていれば108歳...。
23年前、祖母は亡くなりました。私には弟がいます。祖父は私が3歳になる直前に、両親は祖母より前に亡くなり、私と弟より上の世代の家族は全て天に昇っています。

それで、祖母の相続財産は私と弟が引き継いでいました。
その内の一つが、上の写真の箱根の家です。
祖母は56歳の時、この土地を買い、家を建て、近くの旅館でお勤めされていた方と一緒に住み始めました。祖父が渋谷で創業した会社の会長職に就き、週に2~3日私の実家や賃貸マンションに泊まりながら会社に通う生活。旅が好きな祖母は、疲れると言いながらも楽しそうに元気に通っていたことを今でも思い出します。

そんな祖母も70代後半くらいから体が弱り始めました。糖尿病を患っていたために両眼の白内障の手術で人工水晶体が入れられず、自由に歩くのが難しくなり、ある日の会社帰りに東名高速のパーキングエリアで転んでからは入退院を繰り返すようになって、この家にも帰れない日々が続きました。今みたいに介護制度が整っておらず、ポツポツとホテル仕様の有料介護付き老人施設ができてきた時代。祖母の会社の役員さんが見つけてくれた施設に約1年ほどお世話になり最期の時を迎えました。

平成10年、400㎡以上あるこの物件が私たちに相続されました。この時から売却の努力はずっとしていたけれど、この土地には不利な条件が多々あり、全く売れる見込みが無かった。でも固定資産税と町民税は容赦なく課せられる。しかも居住していないために別荘扱いになり、祖母が納めていた時より2倍以上の高額課税。それで弟と私は祖母の現金の財産分与は行わず、残されたお金から税金を支払っていました。それも底を尽き、13年間は私が働いたお金から納めていました。祖母が亡くなってから一度も泊まることはなかった。最初のうちは年に1度訪れるようにしていたけれど、10年くらい前からは中も開けずに2~3年に一度外側から見に行くくらい。数年前に行った時、アルミで囲ってあった塀が無くなっていた。2年前には雨戸が壊されていた。けれど修繕する費用も解体する費用も捻出できない。しかもこの土地は解体すると法律の制限から再建築ができない。とにかくどうすることもできずに毎年税金だけはきっちり納めていました。プラス、古い建物からの火災のリスクを考え、空き家用の火災保険も掛けていました。

2012年に小田原の友人宅で知り合った不動産屋さんに相談。「絶対あきらめちゃダメだよ。どんな不動産でも必ず買ってくれる人がいるから。あきらめないで。」その言葉を信じて、その日がいつか訪れることをずっと願っていたら...

今年の3月初めに突然の電話。今回は条件がいい、売却を考えてみないかと。あれよあれよという間に話は進み、とにかく私は空時間に書類を揃え、4月27日に売却が成立しました。

結局、売却代金は納めた税金を回収するまでには至らなかった。けれど、もう十分に自分の限界の域を超えていました。手を挙げてくれた買主さんに本当に心から感謝しています。

売却日の朝、家から2時間かかる箱根の家に行ってきました。祖父の直筆サインから作られた表札を外し、持ち帰ってきました。辛かったことはいっぱいあったけれど、いざ手放すとなったら寂しさがこみ上げてきました。

52年間の想い出。
この土地を活かしてくださることを祈って、自分の心に大切に残します。

箱根の家を後にして、公道へ続く小径を出たところにあるリゾートマンションの前で、かなりのご高齢のお爺さんに出会いました。お爺さんはマンションの花壇の縁にちょこんと座って「車で来たの?ご苦労様。誰かいた?会えた?」と何度も大きな声で話しかけてきました。私はなぜかウルウルしてしまって声が出せず、ジェスチャーで手をクロスしたり、首を振ったり...。でも最後に大きく手を振って「さよなら、お元気で!またね~」って言いました。お爺さんは「元気でね!お疲れ様!頑張ったね!またね~♪ バイバ~イ、バイバ~イ!」って。。。

しばらく歩いてふと気づいた。
あのお爺さんの言葉は、天から降りてきた言葉だったのかも。
歩いてきた道を振り返り、幼い時からいつも目印に歩いた山の上の鉄塔を見ながら、祖母の形見のネックレスを握りしめて、つぶやきました。

ご先祖のみなさま、ありがとう!
私、もうちょっと頑張りたい。見守っていてね💕

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さてこの話は、もうちょっと続きます。次回は土地の譲渡で発生する税金のお話です。

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