英語の発音をネイティブ並みに上達させる その2

前回の記事では、日本生まれ日本育ちであっても、努力次第でネイティブ並みの発音になることが十分可能であることを書きました。今回は、もう少し掘り下げて話ていきます。

前回の記事で、日本語なまりの英語を話すと恥ずかしいとか、かっこ悪いとか、そういう風潮は偏見である、と書きました。日本にいる時はそんなこと微塵も思いませんでしたが、ネイティブ発音はかっこいい、と言われ、日本語なまりの発音は笑いの対象にされ、、、そんなのが当たり前の環境からアメリカに行った私は、「ばかにされないため」に英語の発音を訓練するのに必死でした。

ここで、究極の結論を書きます。ネイティブの発音にはなれても、ネイティブのように自由自在に英語を扱うようになることはありません。いいですか、違いは、音はいくら似せることができても、中身まではなりきることができない、ということです。私はアメリカでの生活年数が日本で過ごした時間を優に越してしまいましたが、どんなに英語漬けの毎日を送ったとしても、英語が母国語を超えることはまずないです(英語を習得したのが大人になってからの場合は、です)。漢字や慣用句を忘れることはあっても、ふ、とした時に出てくるのは日本語ですし、感情的になった時にすぐに出てくるのも日本語(子供を怒ったりする時です 笑)、そして数を数えるときも日本語の方が断然確実で速いです。

そして、上っ面の綺麗さ(発音)ばかりを磨き上げて、中身が伴わないのが辛くなります。自分のアイデンティティーと噛み合わなくなってくるのです。私は、Ph.D.(博士)学生の時、日本人は私だけでしたし、周りはアメリカ人の中でも秀才中の秀才ばかりに囲まれていました。発音だけは自信がありましたが、発言の内容、論文の内容もアメリカ人と同等でなければ!と思い、私は必死に勉強しました。アカデミック英語を散々学んで、論文を書いて、ジャーナル出版を果たし、国際的なカンファレンスで発表をして、毎日英語の生活を送っていたとしても、結局、母国語に勝ることはありませんでした。そして、ある日気付きました。私は、なぜアメリカ人のようになろうとしているのだろう、と。なれることなど一生ないし、そもそもなる必要もない、と。

さらに、Ph.D.の授業の一環でクリティカルセオリーやフェミニストセオリーなどを学んだことにより、この世のアンバランさに気づき、愕然としました。メディアにより私たちは洗脳されること、白人男性の圧倒的な権力でメディアが動いていること、歴史も白人男性が書き残してきた、ということを知り、自分が大学院で苦労していたことにもあれこれ疑問に思うようになりました。そもそもなぜ英語がそんなにステータスが高いのか、もともとは白人男性が決めたあれこれの言語の決まりをなぜ必死に守らなければならないのか、アメリカで母国語として英語を話さない者は肩身の狭い思いをする必要などあるのか、私が必死に書いた英語を教授に全く違うものに直される筋合いがあるのか、など。例え、難しい言葉や表現が使えなくて単調な文になってしまったり、なんとなくぎこちない表現になってしまったりしても、堂々と自分の言葉として守る権利がある、ということに気づいたのです。

もちろん、文法や発音がが合っていることは大事です。文法や発音が間違っていると正確に伝わらない可能性が高いからです。発音においては、全く別の意味の単語に取られたりしないために正しい発音を練習する必要はありますが、そこが習得できれば、ネイティブになりきろうとする必要はありません。もしあなたが、日本語なまりの英語発音に対する不安を煽るようなうたい文句の英語教室の広告を見たり聞いたりしたら、無視してください。あなたの英語は、あなたが伝えたい、と思う気持ちを込めて話すから素晴らしいのです。



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