第一回文フリ福岡・読書感想文その5『ファミリーツリーは欠けない』

   ***

 大変遅くなりました。前回の感想から三か月、もう~なんといいますか、いや、言い訳は置いといてさっそく感想の方に移りたいと思います。

 文藝散道さんの『ファミリーツリーは欠けない』、改めて読了させていただきました。改めて、という言い方をしているのは、実はかれこれ三か月ほど前にすでにこの本を読んでいまして(当時のツイート)、なおかつその読了ツイートを文藝散道所属のもうエリさんにふぁぼられているという経緯があってのことです。

 つまり僕は一度読了してしまった本の感想を、三か月越しに再度読み直しながらお伝えしているということになります。笑えないかもですがどうか笑ってください。ほんとすいません。返す言葉もございません。

 ……しかしまあ、何はともあれ実際に感想を伝えないことには誠意も無かろうということで、やや遅すぎる行動ではありますが以下につらつらと述べさせていただきます。これまで通り、僕の主観を通した粗雑な感想となってしまいますが、どうぞよろしくお願いします。

 以下、本作品のネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。

   ***






 この本には2つの短編、「オーバークロス」と「血換非可換」が収録されています。『ファミリーツリーは欠けない』というタイトル、また表紙絵のデザインからも表れているように、どちらの短編も「父と子の関係」をテーマのひとつに据えた作品となっていました。

 ということで、まずは1作目の「オーバークロス」から感想をば。

 主人公はひとりのプロボクサー。彼は、かつて試合中に親友の命を自らの手で奪ってしまったことに対し、未練に似た念を抱いていた。そんな折、次の試合の対戦相手が亡くなった親友の息子であることを知り、動揺を隠せない主人公。試合前、親友の息子は主人公のもとに顔を見せ、あの試合のこと、父親のことについての話をはじめる……。

 僕自身はボクシングの経験は無いんですが、このスポーツが持つ「死」との距離の短さ、そしてそれがもたらす一種の狂喜やスリルなどについては、実際の試合の様子や数々のフィクションを見る中で少なからず察することができます。

 おそらくこの作品のメインのひとつはそこで、作中では白熱する試合の描写が丁寧に、されど熱く描かれています。文章を用いて派手な動きを描写するのは簡単なことではないなと個人的に思っていて、そういう意味で一連の描写には羨ましさを感じたりもしました。

 リングの上で命が失われるというのは、いわゆる一般的な「殺人」のように罪に問われる部類のものではなく、ある意味では「正当性のある殺人」だと言い換えることもできます。そこには当然、罪悪感を生み出すだけの十分な要素があるわけで……その感情にずっと苛まれてきたという事実が、主人公の心情描写からも読みとることができます。

 一方で、実際に父親を亡くした息子の方は、主人公に対してただ憎悪だけを抱いているわけではない。もちろん憎いという感情もあり、納得もできないけれども、それでも父の死を認め、前に進もうとする気概がある。この気概の有無が、主人公と息子とを分けるひとつの重要な要素になっているのだろうと感じます。

 主人公との試合に際して、息子はまっすぐ一点のみを見つめていた。どうして父が、あの試合でそれまでの自身のスタンスを崩し、主人公と同じような攻撃的な戦い方を選んだのか。彼は、その理由は父親にしかわからないだろうと語りながら、それでも答えに近づくために、全力を出して主人公とぶつかることを決意します。

 主人公はその決意を聞き、その後の試合で父親のスタイルをコピーしながら戦おうとする彼を見てもなお、どこか冷静に現状を確かめようとする。かつての試合の記憶が主人公にとっての足枷となり、躊躇いや迷いを与えてしまう。

 そんな主人公の諸々の感情を吹き飛ばすように、奇襲をかける親友の息子。この一撃がスイッチとなって、ようやく主人公の意識はあの試合中の意識と重なります。それによって主人公は、自分があの試合で「狂喜」にこそ震えていたということ、その事実を隠すために自分をごまかし続けていたということを悟ることになる。

 それは主人公の抱える罪悪感をさらに増幅させるものではなく、むしろ、罪悪感などというものを放りだしてしまっても良いと思わせるほどの感情だった……この展開を描き切ったことに、僕は今作の価値を一番に感じます。

 彼らがリングの上で感じた「狂喜」は、時に命を奪ってしまうほど凶暴な意志ではあるけれども、その熱に身を任せてしまいたいと思える瞬間がある。主人公にとっての答えは息子が求めていた答えでもあって、それに突き動かされることに後悔はない。結果としてその感情は、主人公の胸につかえるものを払拭する材料にもなり、これからの彼らの行く末を照らす光にもなる……。

 序盤から積み重なった様々な苦悩や後悔の類が、試合の終わりとともに霧散してしまう。そんなカタルシスばりばりの読後感に圧倒されました。もしかすると作者さんはボクシング経験者だったりするのかな……「死」を越えてしまうほどの激情というものに、僕も突き動かされてみたいなと感じた次第です。

   ***

 2作目、「血換非可換」。感情の起伏に特徴のあった1作目とは異なり、こちらは終始、どこか淡々とした雰囲気の中でストーリーが進んでいきます。

 法的に安楽死が認められ、「リジェネ」と呼ばれる再生医療も普及しはじめた社会。父親の経営する八坂病院で働く主人公は、安楽死を希望するひとりの患者と関わることになる。運動ニューロン病という名の難病を抱える彼は、リジェネを受けるという選択肢を拒もうとする。その陰には父親との確執、また亡くなった母親の記憶があり……。

 『ファミリーツリーは欠けない』という冊子タイトルの持つ意味をよりはっきりと示していたのは、おそらくこちらの短編ではないかと思います。どちらが良い悪いということではなく、家族のつながり、遺伝していく想いなどについて、明確に説を展開していたのはやはりこちらの方だろうなと。

 まず、これは単純に僕が気になったことなんですが、この作品は場面の転換というものがものすごく唐突に、それも時系列が一気に過ぎ去るように作られていて、とかく先を急ごうとしているような印象がありました。それゆえかどうかはわかりませんが、主人公についてのイメージが全体を通して一貫していないように思えたり(特に患者の父親と主人公が電話するシーン。あれこの主人公こんな悪人だったっけ??という感じでした)、患者や患者の父親の心情の変化が上手く汲みとれないところがあったり……。

 胸を張って「ダメ出しです」と言えるほど自分には腕も技術もないので、何か思惑があってそういう形式にされたのかなと思い、いろいろ考えたりもしました……と言いつつ、この点について長々と話をするのも仕様がないので、いったん話の方向性を変える形で進めていきますね。すいません気まぐれで。

 この作品における「父と子」の関係性は、大きく2つにわかれています。1つは主人公とその父親で、もう1つは患者とその父親。特に重要な要素となっているのは後者の方で、ラストの場面を患者の父親の心情描写で締めたのも、これが作品の中核を担っているという意図あってのことなのだろうなと感じました。

 安楽死を臨む患者は、序盤ではリジェネに対して否定的な感情を抱いているかのように見えました。主人公の心情描写にもあるように、リジェネは倫理的、時間的、金銭的、そういった種々の問題を抱えている。おそらくそういった理由で、患者はリジェネを拒もうとするのだろうと、主人公は考えています。

 その原因の一端となるであろう出来事が、患者の父親の回想から描かれます。昔、爆発事故によって彼の妻(つまり、患者の母親)は重体となり、かろうじて一命はとりとめたものの、その体や表情はかつての面影をなくしてしまった。それでも患者の父親は、どうか妻に生きていてほしいという想いから、自身も仕事で携わっているリジェネを使うことを決めた。そうして延命を続けていた矢先、意識を取りもどした妻の口からは、「死なせて」という一言が漏れ出ます。

 リジェネを使うことによって助かる命はあり、戻ってくる機能もきっとあるだろうけれど、それは一方でとても苦しいことであり、その苦しみの中で生きつづけることがいかに残酷なことなのかという事実に、患者の父親はようやく気がつきます。

 この問題はリジェネに限らず、現実の再生医療に対しても投げかけられうる問題であるように思えました。この作品の中では、結果としてリジェネが大いに進歩し、多大な需要を獲得したという旨が描写されていますが、果たして現実ではそう上手くいくだろうか……と。

 作中でリジェネが普及したのは患者と患者の父親による手腕ではないかと書かれており、リジェネの普及はある種奇跡的というか、並々ならぬ行動があってこその物だろうと語られています。それと同じような努力が、情熱が、現実にも生じうるかどうか。そしてそれが、倫理や時間や金銭といった障害を軽々と乗り越えられるほどの力になるかどうか。作品のメインではないところだろうと思いますが、個人的にとても興味深い部分ではありました。

 再生医療に身を委ねてもなお救えなかった母の記憶が、息子のリジェネに対する拒絶を生んでいるのだろうと患者の父親は考えていました。しかし実際には異なっていた。患者自身も父と同じように、母親の事故を通してリジェネの研究に携わるようになっていました。母親の死をきっかけに途切れてしまったと思っていた縁は、本当はとても密接につながっていたということがわかります。

 彼がリジェネを受けようとしなかったのは、単純に彼の抱える病気がまだリジェネの管轄外にあるからという理由でした。それゆえに彼はリジェネを拒み、安楽死を決意していた。父親にその了解を取りたがらなかったのは、ただ単純な嫌悪というだけではなく、母の死をフラッシュバックさせるような気がしてためらっていたという想いもあるような気がします。

 そうして、息子が安楽死をしてから何十年も後になり、ようやく患者の父親は自らも安楽死を受けることを決意します。父子のリジェネに対する異常なまでの執念によって、人々の寿命は飛躍的に伸びた。安楽死も二百歳を過ぎないとその権利が認められないとされていることからも、その事実が読みとれます。

 患者の父親は安楽死を前に、『私』という存在を動かす元の電気信号とは何かという問いについて考えます。結果として彼は、「電気信号は伝播する」、つまり自らの親、あるいは近しい人々の信号が伝って『私』が動いているのではないか、という答えにたどり着きました。それは彼の息子が、父と同じリジェネの世界に踏み出したことの証拠でもあり、また主人公が父親の跡を受け継ぎながら医者をつづけている理由にもなりえます。

 彼が生涯をかけて広めたリジェネは、まさにその電気信号を操る概念であり、ある意味では『私』を揺るがしかねないほどの存在と言える。それでも彼は最終的に「選択」することができた。全身をリジェネという「作り物」に変えながらも、彼は自分で安楽死を「選択」する力を持っていた。おそらくそれが彼の考える「元の電気信号」の持つ力であって、死の直前に「死なせて」と呟いた妻の面影でもあったのだろうと思いました。

 安楽死と再生医療――いまや現実にも「SFだね」とは言えなくなってきたこれらの概念について、すこし変わった方向から一石を投じた作品だというのが、僕の大まかな感想です。作者さんがそこまで大げさに考えられていたのかどうかは不明ですが……。『ファミリーツリーは欠けない』という一冊の本を締めるにあたり、十分にふさわしい作品だと感じます。ありがとうございました。

   ***

 なんと言いますか、改めて自分の文章を読み返してみると、「感想」っていうより「本文まとめ」のようになってしまっていて、なんだか申し訳ないなと今さら感じています……。期間が空いたから感想の書き方を忘れてしまったのかもしれません。でも言いたいことはちゃんとすべて言えました。たぶん。

 文藝散道のもうエリさんには、僕のサークルの冊子について大変丁寧な感想をいただいていまして、メンバー一同それはもうありがたく読ませていただきました。こちらも早くお返ししようと決心したのが去年の暮れ……まさかここまでの体たらくっぷりを見せつけてしまうことになるとは思いませんでしたが、ようやくその無念を果たせます。感想をどうもありがとうございました。こちらはどうにも拙い感想ではありますが、お読みいただけたのなら嬉しいかぎりです。

 最後に装丁について。なっつさんの描かれたハイクオリティな表紙絵、これがきっかけで僕はこの本を手にとったようなものです。素敵な本にめぐり合わせていただきありがとうございます。若々しい母親のほほえみ具合がすごくタイプです。聖母かな? あと隣で絵を描く子供もちっちゃかわいくて好きです。実は最近ショタにも目覚めてきて、あ、この話はやめます。

 文フリで購入させていただく際、表紙とタイトルを見て反射的に「これは母と子の話なんですかね?」と聞いた僕に「いえ、父と子ですね」と答えてくださった売り子さん、その節はありがとうございました(?)。ぜひまたどこかのイベントでお会いできることを願っています。次は第二回文フリ福岡でしょうかね……その時までには、僕もさらにパワーアップしたいものです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?