電車に乗る(J市地下鉄・夜)

   ***

『ざんねーん。タイムリミットです、藍くん』
「……あと一時間延長とかって」
『効きません』
「効かないか」
 そんならしょうがない。俺は潔く諦めることにした。
 あれからひたすら地下鉄内を探しまくってみたのだが、どこに行っても朱里の姿は見当たらなかった。朱里のことだから、それなりに自信はあったはずなんだが。
 納得はいかないけれど、見つけられなかったのは完全に俺のミス、というか力不足だった。
『実はさ、知ってた』
「何を?」
『藍くんはわたしを見つけらんないって』
「そんなの、結果論だろ」
 もし俺が朱里のことを見つけていたら、「藍くんなら見つけてくれるって思ってた!」とか言うに違いない。朱里はそういう奴だ。少なくとも、俺はそう思っていた。
 だが、どうもその想像は間違いらしかった。
『ううん。最初からわかってた。藍くんは、わたしを見てないんだもん』
 一瞬、俺の頭に謎が浮かんで、解決されることのないまま外へ飛び出して消えていった。
「……何言ってんだ。俺は、見てるよ。朱里のこと」
『見てないよ。見られてないわたしが言うんだから』
 本当のこと、とささやく朱里の声。いつものテンションとは打って変わって、まったく別の誰かと話しているような錯覚に陥りそうなほど、朱里は気を落としているように思えた。
 どうしたんだ、朱里? 俺が見つけてやれなかったことが、そんなにショックだったのか?
『じゃ、今日はここで解散する? それとも一緒に帰る?』
「…………」
『藍くん?』
「……もう少し。チャンスくれっつったら、ダメか」
 ダメ元で聞いてみた。きっと朱里は断るだろうと思う。それでも、今この場でちゃんと片づけておきたい、複雑なわだかまりが俺と朱里との間には生まれているような気がした。
 もしも朱里がチャンスをくれるなら、俺はそれを無駄にすることなく、すべてを解決しなくてはならない。そんな気がした。
『…………』
「朱里?」
『……いいよ。じゃあ、あと30分だけ。わたし、ずっとここで待ってるから。迎えに来てね。約束』
 長い沈黙の後、朱里はそう言って電話を切った。俺は携帯をポケットに入れ、脳をフルに使って朱里の思考を追った。
 朱里がいるのはどこの駅だ? どんな経路を辿ってそこにいる?
 朱里は、いま、何を考えてる?
 ホームに入る電車の轟音が耳に届く。直感を信じ、俺は朱里の行方を追う。これから向かう先に、どうかあいつの姿があればと、そう願っている。

   ***

『……すまん、電車の中なんだが、切っていいか』
 藍くんの小さい声が聞こえてきます。
「そうだろうと思った。いいよそのままで。話さなくていいから、話だけ聞いてくれれば」
 わたしは駅のホームにあるベンチから立ち上がって、辺りを軽く歩きはじめました。つい先ほどまではサラリーマン風のおじさんたちがたくさんいたのですが、帰宅ラッシュも過ぎてしまったようで、今はすっかりこのホームも空になってしまいました。
 寂しいな、と思います。また朝がくれば、たくさんの人がやってくるのでしょうけど。
「あのね、藍くん」
 電車のアナウンスがかすかに聞こえる電話の向こうに、わたしはゆっくり言葉を送りました。
「わたし、藍くんのこと……」
 言おうかどうか。ためらいます。
 でも、言わなくちゃいけません。
 そうしないと、藍くんはきっといつまで経っても、わたしを見つけてくれません。
「大嫌い」
 口から出たのは、そんな軽い言葉でした。
「藍くんのこと、昔からずっと、大嫌い。今もずっと、そしてたぶん、これからもきっと」
 溢れるように、言葉が出てきます。喉が勝手に動いて、口の中が渇いて、それでもわたしは、まだ言葉を紡ごうとします。
「藍くん、こんな話聞いたことある? 人が人に恋をするのは、相手の持ってる遺伝子と自分の遺伝子が、そりゃもうたくさん、とにかくたくさん違ってるからなんだって。自分は持ってないけど相手が持ってる遺伝子を、欲しいって思うから、恋するんだって」
 藍くんの息づかいがほんのちょっと聞こえてきます。わたしは続けます。
「細かいことは知らないけど、そうなのかもなぁって思うんだ、わたし。面白いなって思う。だってもしそうだとしたら、人が生まれたその瞬間から、将来の相手がどんな人になるのか、ほとんど決まっちゃってるようなものじゃん? それって結構ロマンチックだし、不思議だし、運命っぽいっていうかさ。だから、すごく良いと思うんだ。そういう考え方って……」
 立ち止まって、ホーム端の壁を眺めます。そこからくるっとターンして、また前に歩きはじめます。出来るだけ、余計なことを考えずに。意識を頭に集中させて。
「だからね。もしこの話が本当だったら、わたしが藍くんのこと大嫌いなのも説明つくでしょ? あぁ、なるほどなぁ、そういうことだったんだぁ、って、なるでしょ? うん、そうなんだよ。そうなるんだ。そうなるから、それでいいと思うんだ、わたし」
 アナウンスが、わたしが今いる駅の名前を知らせます。ちょっとだけ笑って、でも目までは笑えません。
「ね、藍くん」
 地下鉄の向かい側のホームに、電車が入ってきます。
「わたしのこと、どう思ってる?」
 もし想いが届くなら、藍くんもきっと。
「……わたしの、こと」
 電車が走り去っていきます。加速して、加速して、加速して、途切れて、
 そこに、藍くんが見えました。
「大嫌いって、言ってくれる?」
 よくわからないけど、わからないなりに、涙は流れるものなのです。

   ***

「好きだ、朱里」
 俺は言う。
 そう言わなきゃいけないと思った。
 嘘なんかじゃなくて、でも本当じゃなくて、好きでいたくて、好きなのは変で、おかしくて、だけど好きでないといけなくて、だからこそ、こんなにも捻りに捻られてる俺らの関係を。
 たとえ仮止めでも、繋ぎとめてやらなくちゃいけないんだ。
 好きとか、嫌いとかって、たぶんそういうもんだろ? 朱里。

   ***

『帰ろう、朱里。それから……』
 わたしにはもう、何も言えません。
 ずるいって、反則だって、言いたいのに、言えません。
 藍くん。藍くん。
 そう呼びたいのに、呼べません。
 それなのに、どうしてなんでしょう?

『O街に。俺らの家に、戻ろう』
 藍くんには、いろんなことが、ちゃんと伝わってる気がするんです。


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