電車に乗る(J市地下鉄・昼)

   ***

ひび割れた水面の 揺れる波に誘われて
ちいさな船に乗って 僕は朝に会いに行く

雨のあがる空に 満たされた空白の群れ
やさしく包みこんで 指先で触れるような

   ***

 電車の走る音がする。窓の外に見えるのはいつも同じような景色で、オレンジ色のライトが一瞬、矢のようなスピードで視界をすっと通り過ぎていく。俺は座席に深く身を預けて、しばしその温かさに酔った。
 J市地下鉄の各駅を、始発に乗って回りはじめてからもう数時間が経つ。端から端まで行くにはそれなりに時間はかかるが、それでもせいぜい一時間経てば長い方と言ったところだ。そのため、ただ単純に始点から終点まで行くだけではもったいないと考え、俺と朱里は出発点のH街付近の駅から一気に終点のM城下町跡まで向かい、そこから折り返しで一駅ずつ乗っては降りを繰り返し、各駅構内を探索しようという考えに至ったのだが。
 いろいろと失敗だった。地下鉄の駅なんてどこも同じようなもんなのだ。だいたい三駅目くらいで探索に飽きて、それからは水分調達かトイレ休憩程度の空き時間を過ごすだけに留まってしまった。
 あと、一駅進むたびに降りないといけないというルールもまずかった。単純に言ってめんどくさい。一回の乗車時間がとにかく短いから、電車に乗っている、という感覚をほとんど楽しめないのだ。俺も朱里も特別に電車が好きというわけではないけれど、少なくとも、深夜のウォーキングで疲れた体を運んでくれる便利な乗り物として、それなりに信頼と好意を置いていたことに違いはない。
 主にそういった理由があり、それからそろそろ腹が減ってきたということもあって、一度H街の方まで一気に戻ってから、飯を食べた後で改めて行動を再開しようということになったのだった。
 電車に長いこと揺られるのは今朝以来だが、通勤ラッシュも過ぎて車内もそこそこ空いてきた今の時間帯は、朝とはまた違った種類の穏やかさを見せているように思う。気温の問題も多少はあるのだろうが、冷房の涼しさが朝と比べて弱まっているように感じた。
 静かな空気。アナウンスも車輪の音も、左耳に付けたイヤホンからも、こんなに騒がしい音が鳴っているというのに。
 なのにどうして今だけは、何も聞こえない気がするのだろう。
 向かいの窓に、俺と朱里の姿が薄く映し出されている。朱里は顔を伏せて、眠気に身を任せているようだった。俺は左耳のイヤホンをしっかりと入れなおして、蛍光灯に顔を向けたまま目をゆっくりと閉じた。

   ***

今でもまだ 覚えている
あの風景を あの感覚を
もう 目覚めないよう 守っていて
息を止めて 熱に触れていて

今ならまだ 思い出せる
あの憧憬も あの哀惑も
また 目覚めたらきっと 会いにきて
雨に濡れて 明けるまで繰り返して

繰り返して

   ***

 わたしの隣には藍くんがいます。
 わたしの右耳にはイヤホンがついていて、もう片方に藍くんの耳につながっています。ウォークマンから流れる音は、わたしの大好きな曲の一つ。真昼の淡い雰囲気の中で、調和するように響いています。
 暖かいです。いろんなものが。それから、いろんな気持ちが。
 なんとなく、昔のことを思い出したりします。O街に、四人で暮らしていたときのこと。その多くは断片的で、はっきりとは思い出せないのですが、それでも、記憶にはちゃんと残っているのです。
 小さい頃の思い出を今でも大事に持っている人はどれくらいいるんでしょうか? それは何歳くらいのこと? そこには誰がいて、何をしていたんでしょう? それは果たしてどれくらい、その時のままで残っているのでしょう。
 わたしには小さい頃の記憶がありません。
 別に重い話ではないんです。ただ、忘れてるだけです。五歳かそれくらいよりも前の時代の記憶が、本当にもう、夢みたいな感じで、全然形になっていないんです。
 それでもひとつ、その頃の自分の記憶として、はっきりと思い出せることがあります。
 藍くんがいつも、わたしの隣にいたことです。
 ……電車はもう、十数もの駅を通り過ぎて行って、もうじき終点へとたどり着くようです。わたしは、まだちょっとだけ眠気の混じった頭をなんとか起こしてあげて、到着を知らせるアナウンスを無理やり耳に入れました。ちょうど曲が流れ終わったイヤホンを外すと、隣にいる藍くんも同じようにイヤホンに手をかけていました。目が合ったわたしたちは、お互いに笑うでも目を逸らすでもなく、ただじっと、ほんの数秒間だけ、はっきりと見つめ合っていました。
 電車のドアが開いて、人たちが外に出ていきます。わたしと藍くんも立ち上がって、ゆっくりと電車を降りました。昼はどうすっか、という藍くんの言葉を聞いていても、わたしの脳内はどこか上の空のまま、少しだけ熱を持ったようにぼうっと浮遊していたりするのです。


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