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実験動物① 学生実習で脊髄ガエルを作ったときのこと

 もう半世紀近く前の話だが、学生の頃やった一般教養の実習で、今でもよく思い出すのが、ひとつある。

脊髄ガエルの実験

 ―――脊髄反射機能を研究するために、手術で、脳を切除したカエルを作るのだ。

 教養部の生物学教室は、イロハの”ロ”を取って「ロ号館」と名付けられた古びた建物の五階にあった。迷路のような廊下を挟んで部屋がいくつか並んでいて、実習室はその突き当りになっていた。間違えて別の部屋に迷い込んだら、恐ろしい光景に遭遇しそうな気がして、入り口のドアに手をかけるときには、慎重な心構えがいる。どこか生臭く、薄気味悪い一郭だった。

 その日の担当教官は、不気味な前置きをした。

「いたずらに悲鳴を上げるようなことは慎んでください。パニック状態は恐怖心を煽ってしまうものです。」

 体長20cm余りのヒキガエルが、学生の二人当たり一匹ずつ配られた。ガラスの容器にカエルを入れると、クロロホルムを浸した綿を放り込んで、ガラスの板で蓋をする。クロロホルムの量とカエルを閉じ込める時間の長さをうまく調節しないと、カエルは、暴れて怪我をしたり、麻酔が強すぎて死んでしまったりする。ここで失敗したのでは、話にならない。

 おとなしくなったカエルは手術台に固定されて、骨切りハサミで頭を切られる。目の後ろで垂直にハサミを入れて、カエルの上あごを、脳と目と鼻ともろともに、切除する。実験主義の手引書では、いとも簡単にさらりと書かれたくだりだが、これはそれほどたやすいことではない。

 一人がカエルを背中から押さえつけ、もう一人がハサミで切る。

 こいうときは、切る役を選ぶ方が絶対に得だ。麻酔でおとなしくしているようでも、カエルは切られるとき、脊髄反射で、弱々しい手を蹴飛ばしてしまうほど暴れるし、声ならぬ声も上げる。両方の手のひらに、カエルの”痛み”を余すことなく吸収して、カエルの呻きに合わせて悲鳴をかみ殺す。まさに手術台のカエルと一心同体にならねばならない瞬間である。

 息を詰めてハサミを構える。

「いいわね?」

「いいわよ!」

先ほどから10回も繰り返しているかけ声をもう一度かけあうと、カエルは麻酔が切れて動き出した。顔を半分切られたところで、カエルが覚醒して苦しみ始めようものなら、地獄だ。手伝いにかり出された大学院生たちは、クロロホルムを湿した綿と骨切りハサミを手に、走り回った。

頭のないカエルと、干からびた脳と

 学生の数の半分だけ、頭のないカエルができ上がると、脳を包んで目と鼻のついた上あごは、手術台の端の皿に置かれて、実習室はいっとき、静かになった。

 やがて麻酔は醒めるが、カエルたちは、自分の頭がなくなっているのに気が付かない。頭がちゃんとあるかのように、しっかりとお座りの姿勢をして、じっとしている。目がない、鼻がない。聴覚と触覚以外には刺激が入らないので、動かないのだ。頭部の上半分に直角な断面を見せて、薄い下あごの上に赤い舌をひらひらさせながら、カエルは結構、堂々としていた。

 さて、いよいよ、実習のテーマに入る。高位中枢の脳を切除されたカエルは、どのような脊髄反射をみせるか。

 まず、水に入れてみた。カエルは上手に泳いだ。水面から鼻面をのぞかせてキョトンとするしぐさも、世間のカエルと変わらない。鼻も目もないけれどーー。直角に切除されたカエルの頭部の断面が、水面に上下する。

 次に、カエルを載せた手術台を斜めに傾ける。カエルはうまくからだのバランスをとって、平衡感覚が失われていないことを示した。

 足指をピンでつつけば足を引っ込めるし、酸を湿した紙片を表皮に貼れば、後肢で払いのける。

 高位中枢から切り離されて、脊髄反射はより率直に規則正しく表現された。実験は成功である。

「では次に、カエルを跳ねさせてみてください。」

 実験台の一端にカエルを置いて尻を押してやると、カエルはピョンピョンと跳び始めた。どこまでも跳んでいく。次の刺激が加わるまで跳び続けるしかないのだ。

「止めなさい。」

 下あごを突き出して、頭の断面を見せながら跳ねてくるカエルの前に回って、どうやって止めろと言うのか。ああと思う間もなく、カエルは1メートル下の床に落っこちてしまった。ベタッ。

 ゾクッとして一歩退く。と、後ろから、隣のグループのカエルが同じように床に落ちて、こちらに向かって跳んできている。

「きゃあああ」

 一人の恐怖がもう一人の恐怖を煽って、パニックだ。

 カエルたちは、学生の悲鳴の中を、一斉にピョンピョンと跳び始めた。実験台の下、物置の隅、私物入れの戸棚の中、教卓の陰。扉の隙間から廊下へ出ていくものもある。

「捕まえなさい!」

「実験台に戻しなさい!」

 カエルは跳び、学生たちは泣き声を上げた。もう収拾のつけようがない。

 そのとき喧噪の中に、ポツンポツンと静止した物体があった。実験皿の中に置かれた、カエルの頭部の切除片である。目は腐った魚の白い濁りように似て、鼻孔はいびつに歪み、皮膚は固く突っ張って、そして脳は、完全に干からびて、死んでいた。

 肉体を二つに分割された場合、カエルである本質は、脳の部分にあるのか、それとも、胴体の部分にあるのか。脳の部分のカエルが、こうして干からびて死んでいるにもかかわらず、胴体の部分のカエルは、ピョンピョンと跳び回って学生たちを追い回している、生きているのだ。

 ひときわ高い悲鳴を上げたような気がしてフラッとしたあとのことは、何も覚えていない。

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