東京パンクガール、失踪する
星の見える春の夜道は、『普通』の人にとってはとても過ごしやすいはずだった。
駅から少しだけ離れた街は静かで、住宅街には街灯の明かりだけが輝いている。
その僅かな明るさからも身を隠しながら、わたしは小さな台車に大量のダンボールを積み、500mほどの距離を何往復もした。
バイト先の台車を借りたときは最高のアイデアだと思っていた。
必要な荷物をあきこの家に一時的に置かせてもらうことも。
実際に運んでみると台車は不安定だし、荷物はどれだけ選別しても意外と量がある。
『普通じゃない』若い女が車輪の音をガラガラと響かせながら、静かな夜の街を何度も往復するのはどう考えてもちっとも良い考えではない。
春の夜は少しもわたしには優しくなかった。
バンドをはじめた頃がどんなだったか、1番鮮烈に思い出すのはこの日のことだった。
わたしの半年間の失踪初日。
人生経験なんてほとんど積んでいないのに、何かを1からはじめるには少し遅いと言われる21歳の頃だった。
父が亡くなり、わたしの留年(というかほとんど大学に行ってないこと)が発覚し、母親にとって人生最悪ともいえる瞬間をむかえ、わたしは実家に強制送還されるはずだった。
『普通』の人から見たらどう考えたってわたしは最悪で自己中心的な子供だし、反省して帰省し、これからは親の言うことを聞いて生きていくべきだった。
だけどそのときのわたしときたら、そんな常識やら良識なんてのは「まったくクソくらえ」だった。
このときわたしはまだ上京して二年ほどだったと思う。
この二年で学んだことはとても多かった。
まず、わたしはどうやってお金を使うかを知った。
はじめはドーナツ屋さんでほしいドーナツがひとつだとしても、ひとつきりしか買わないなんてケチだと思われるのかな?って思って怖くて買えなかった。
とにかくどんな店に入っても五人分は買って、要らない分はひとにあげた。
今では平気で自分のほしい分を買える。
それに「長野」と「長崎」の違いがわかった。
部活で長野へ合宿へ行くと言われていたのに、出発のバスに乗るまで長崎に行くと思ってた。本気で。
指定の荷物が少ないし、移動がバスだしで混乱したけど着いた先が長野だと分かって心底ホッとしたし、最初から知ってたって顔をした。
今はそこまで勘違いしてたら、もっと早い段階で指摘してくれる友達がいるから大丈夫。
それから、バイトをして自分で稼いだお金をはじめてもらった。
時給750円だし、恐ろしいほど仕事のできないクズだったけど、自分が働いたお金ってすっごく嬉しかった。
男の子とも話せるようになった。
学校の異性とはまったく話せないのに、バイト先の男の子とはなぜか普通に話せる。
まるで悪い呪いが解けたみたいだった。
そして何より、銀杏ボーイズとの出会いだ。
それは軽音部に入ってすぐのこと、わたしは音楽など何も知らないのに友達がほしくて入ったため、このバンド知ってる?って聞かれたら大体知ったかぶりしてその日にツタヤで借りたベストアルバムをこっそり聞き込むという苦行を強いられていた。
そんななか一番心にヒットしたのが、みんなでカラオケに行ったときあきこが歌った銀杏ボーイズだ。
わたしがOLみたいな服を着てアンジェラアキを歌いめちゃくちゃ溶け込もうとしてるのに友達がいない反面、あきこは根っからの音楽好きで下北系みたいな古着を人懐っこく着こなしててすごく人に好かれていた。
そんなあきこが突然、銀杏ボーイズを歌いだして場の空気が凍りついたのを今でも覚えてる。
わたしははじめてそのとき銀杏を聴いたし、あまりに良い曲で大興奮してはじめてまともにあきこと話した。
もちろん、元からちょっとこのバンド知ってたという風を装い、その日に全部のアルバムをアマゾンで注文したけど。
わたしがバンドをはじめる最初の一歩はまさにこのときだった。
ほかにもたくさんあるけど、とにかくわたしが上京して思い知ったのは自分がとんでもなく『何にもできない人間』だってことだ。
自己評価は元から低いから別に驚きはしなかったが、ちょっと引いた。
上京する前の高校生活はほとんど記憶がない。
学校はどうしても自分には合わなくて、自分のことを思えば辞めるべきだったが世間にいろいろ言われたら戦う力が無かったので卒業まで耐えた。
早く終わって〜って感じで通学するだけで精一杯だったから思い出も学びもほとんど無い。
それでも、世の中の『高校は卒業しなさい』という声には従ったのだから何かリターンがあるはずだ、と思ったのが間違いだった。
大学も何も変わらない、同じことの繰り返し。
わたし自身が変わらないのだから当たり前だけど、「世の中の声」とやらに少しも信頼を置けなくなった。
世の中はまた大学を辞めるなって言ってくるだろう、でもそれに従って何か良いことがある保障も相手が責任を取ってくれることすらないことも身をもって知ったのだ。
銀杏ボーイズを聴いてから、たくさんのパンクミュージックを一気に聴いた。
バズコックス、グリーンディから、ウィーザーまで。
わたしが音楽初心者なのは誰にも内緒だったので、ツタヤにあるパンクコーナーにオススメされるまま端から端まで借りた。
世の中の正しい声から耳を塞ぐように、音楽のボリュームをどんどん上げた。
就職を蹴ったあきことバンドを一緒にやろうと決めたころに、わたしは実家に強制送還されることになった。
親とも、おばあちゃんとも話し合ったけど、どうにもならなかった。
まあ、わたしだって二十歳の娘にバンドやらなきゃ死ぬ!とか言われても何言ってんだこいつと思うだろう。
しかもわたしがバンドが好きになったのなんて最近のことだった。
わたし自身うまく説明がつかないのだから、人に伝わるわけがない。
ただずっと無視されてきた心だけが、悲しみや辛さや怒りやドキドキの塊のような激情で、わたしに東京に居るべきだと囁いた。
わたしは足らない言葉の代わりに荷物を運んだ。
借金をして部屋を借りた。
今考えてももう少しやりようがあったのでは?って思うけど、あのころ空っぽな自分ができた最善がこれだった。
このときの選択が無かったら10年たった今のTHE PATS PATSは跡形も無い、って思うとそんなに悪いことでもなかったなと思う。
正解だと思った選択に答えが出るのは、いつだってものすごく時間がたった後だ。
荷物を運び終わるころには、わたしは疲れきっていた。
春の夜も街もわたしをひとりぼっちにする。
音楽のボリュームを上げて、世界から耳を塞ぎ、空っぽの自分で空っぽな世界を漂う。
なにもないわたしに残されたのは、上手く弾けないベースと革ジャンと少しの生活必需品と、行き場のない怒りや、どこからか沸き起こるドキドキだけだった。
「それで十分だよ」と、爆音で鳴り響くパンクだけがわたしに囁いた。
その夜『普通じゃない』わたしに優しかったのは、たったひとつパンクだけだった。
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