ルイヴィトンとギャルと自由について
母からルイヴィトンの財布をもらった。
直前までマジックテープのついたキティちゃんの財布を使っていたから、ギャップが凄い。
カバンから取り出す度に少しギョッとしてしまう。
たけど不思議なことに、この財布は手に持ったときの感触が肌にぴったり馴染むし、整頓されてないカバンの中で「ここにいるよー!」って言ってくれてるみたいにすぐに見つかる。
使いはじめたばかりの財布とは思えないくらい、いきなりわたしの相棒になった。
この財布、実は新品じゃない。
はじめてこれをあげるって言われたのはわたしがまだ高校生の頃。
15年は前のことだった。
「お父さんが買ったのに使わないから」って。
そのときはもう1つ財布の選択肢があって、まるで「金の斧と銀の斧」みたいに、「どっちのルイヴィトンがいい?」って湖の精のような母に聞かれた。
わたしは今回もらったのとは違う方を受け取った。
間違っても物語の主人公みたいに、どっちも要らないとは言わなかった。
選んだ決め手はとにかくブランドロゴが目立たない方だ。
「高級ブランドの財布」を持ち歩くなんて、怖くて恥ずかしい気がした。
だってわたしはギャルじゃないから。
最近、映画の「sunny」を観たり、水原希子ちゃんがコギャルファッションをしているのをみて、でかでかと主張するブランドロゴや、ルーズソックスなんかがとても懐かしく思えた。
甲高い笑い声に、人前で平気でちょっと下品な会話をして、ケバい化粧をしてる。
高校生の頃のわたしはぶっちゃけギャルが苦手だった。
もっとぶっちゃけてしまうと、このクソビッチ共くらいには思ってた。
でも本当は少しだけ、羨ましかったのだ。
ちょっとだけわたしも、アルバローザのショップ袋を持ち歩きたかった。
ミニスカートから見える育ち盛りの太ももをさらに太く見せるルーズソックスを、これ見よがしに履いて、バカ笑いしたかった。
あの頃は本当に嫌で仕方なかったけど、大人になった今ならあのギャル達をちょっと可愛く思える。
だってわたしもこっそりルイヴィトンを持ってたし。
本当はちっちゃいロゴの分だけ、わたしもギャルに参加表明してたのだ。
あの頃から15年のあいだ、わたしの財布買い替え時期になると母は懲りずにこの財布をだしてきた。
父が亡くなって本当の持ち主を失い、ずっとしまい込まれて、たまに外に出されるとわたしに要らないって言われ続けてきた財布。
そろそろわたしも根負けだ。
それに、今なら「大丈夫」って気がした。
今のわたしならこの財布を持ってても、ちっとも変じゃないなって思えたのだ。
ひとつだけ映画「sunny」で自分とは決定的に違うなぁ、って思うところがあった。
それは主人公達が大人になった今の自分より、高校時代の方が楽しかったって思ってるところ。
わたしの高校時代が微妙だったのもあるけど、ただそれだけじゃない。
大人になるって本当に楽しい。
あの狭い教室に閉じこめられてるときは、少しでも自分と違う人達はなんか怖かったじゃない?
わたしは違うよ、って意思表示しなきゃいけなかった。
こういう人ですよ、ってカテゴライズされないと存在を許されなかった。
だけど歳を取ればわたしたちは自由だ。
わたしはギャルです!とか、ギャルじゃないです!!なんていちいち言わなくていい。
好きな服を着て、好きな仕事をして、好きな人と一緒に居ればいい。
歳を取ればとるほど、自分の人生を自分のものにできる。
ギャルでもないしお金があるわけでもないわたしが、ルイヴィトンを持っても少しもおかしくはない。
もう誰にも笑われないし、笑わせないって胸を張れるのだ。
それはきっとあの頃ギャルだったあの子達も一緒のはず。
わたしたちは狭い教室から出てはじめて、ひとつの広い世界に生きるひとりひとりの人間に過ぎないんだって気がつくのだ。
そこではもうお互いの小さな違いでギスギスする必要なんてない。
みんなどこかが違うに決まってるし、そういう意味でみんな一緒なのだから。
今、長い時を超えてルイヴィトンの財布がわたしのカバンに入っている。
これはわたしがやっと一人の人間として自分を愛せるようになった、そういう「自由」を手に入れた証明なのだ。
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