染野太朗歌集『初恋』

作者と作中主体を明確に区別する方がよく読める歌集と、作者と作中主体は同一視した方が良く読める歌集があると思うのですが、私はこの歌集は後者だと思います。著者略歴の人物が作中主体だと思って最後まで読むと「初恋」というタイトルの切なさにぐっときます。
文語旧仮名ならではの間合いの取り方と細やかな季節感の捉え方と吟味された比喩からなる端正な美しい文体に対し、身もふたもないほどストレートな愛情表現のバランスが絶妙で、同年代の読者として妙に身につまされる感がありました。染野太朗さん『初恋』から好きな歌をいくつか紹介します。

夏へ向かふ電車とおもふきみでなき人に会ふために駆け込んだけれど   染野太朗『初恋』

これから夏に向かっていく季節って何もかもキラキラしていて生命力に溢れていますよね。「けれども」と逆接の言いさしで終わっているあたり、前半との対比で会う相手が君ではないという暗さが際立ちます。

温泉にまた行きたいです! 1行がそれでも春の奇跡だったな   染野太朗『初恋』

「きみ」と一緒に松田屋に泊まってから一年後のようです。主体は、旅行直後に「きみ」からもらったメッセージ(LINE?)を「春の奇跡」と思いつつも、それが一年前のたった一行であるという事実もわかっています。

いつそここに住まうか誰を責むるなく海を人を雨を日々に詠みたし   染野太朗『初恋』

長崎旅行中の一連ですが、とにかく自分が住んでいる場所から離れたいという心境だと読みました。「誰を責むるなく」と言いつつ、海と人と雨が同列な観察対象なあたり、深く人と関わることに疲れているのでしょう。

もうそばにゐたくないのに花束をほどいて挿して水を与えて   染野太朗『初恋』

「挽歌」という一連の歌で、長崎の殉教者を詠んだ歌もあるものの、挽歌が殉教者に向けたものなのか、自分に向けたものなのか迷いました。この歌を読む限り、自分に向けた挽歌であるような気がしてなりません。

ストローでホットコーヒー吸ふやうなさみしい恋もとうに終はつて   染野太朗『初恋』

「ストローでホットコーヒー吸ふ」という比喩に、相手を求めるやり方を決定的に間違えていた自分の愚かしさに対する慚愧の念が感じられます。「とうに終はつて」いるからこそ気づいたんでしょうね。

きみもどうせぼくを忘れるんでしよといふ誰のこゑなる木に垂れてゐる   染野太朗『初恋』

「誰のこゑなる」とありますが、どう考えても自分の声でしょうね。「垂れてゐる」という動詞が怖くて、悲痛な声から血が流れ続けているように感じました。

ひととゐて自分ばかりを知る夜の凧をあやつるやうにくるしい   染野太朗『初恋』

誰かと一緒にいても相手の気持ちは全然見えなくて、ずっと自問自答しているのでしょうか。他の人といるのに、自分の凧を自分で操るしかない孤独を抱えているのは確かに苦しいでしょうね。

ひとの幸せを願へぬといふ罰ありきメロンパン口に乾きやまずき   染野太朗

「やまずき」は打ち消し「ず」の補助活用を使わず、過去助動詞の「き」に接続したのでしょうか。「ひと」ありますが多分「きみ」ですよね。過去の助動詞なので、今は願えるようになったのだと思いました。

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