鈴木英子歌集『喉元を』

娘さんの介護とご両親の見取りの日々等、作者の実生活を綴った作品に具体物の描写に迫力があるのは当たり前のことですが、作者がその場で見聞きしていないはずの世界情勢や歴史的時事を詠んだ作品にも臨場感があると思わせる迫真性があるように思いました。
第五歌集『喉元を』単体で読んでも支障はないのですが、第一から第四歌集まで読んだ後だと作者や詠まれているご親族の方々の様々な変化が分かるので、それを踏まえて鑑賞した方が色々感慨深いかと思います。鈴木英子さんの『喉元を』から好きな作品を紹介します。

からだと呼ぶこれが私であることのピンヒール履き曇天を踏む   鈴木英子『喉元を』
「私」は作者本人である同時に、世の中の女性一人ひとりを指していると読みました。ピンヒールはスタイルが良く見えるけれどかなり苦痛なので、女性としての戦意が高くないと履けません。

「ここでならさわっていいです」親であるつとめは自慰の場を定むるよ   鈴木英子『喉元』
障害児男子と母親を詠んだ連作の一首。幼児のようにお遊戯をしていても、体は髭が生えるほど成長した思春期の青年という現実の残酷さを端的に綴っています。

にんげんは玉子ひとつをそばに割り月に仕立てて壊して食える   鈴木英子『喉元を』
この歌単体だと単に月見そばを食べているだけの歌ですが、直前に脳の病気で亡くなった友人宅を訪れ、友人の娘さんと会った際の歌が並んでおり、人間のはかなさや虚しさを示唆する作品となっています。

誰の手もまだ触れざりしをひらくとき本の破瓜なる音かうすもも   鈴木英子『喉元を』
新しい本を開くとき剥がれるような音と手応えを感じるときがありますが、それが破瓜だと言われると頁をめくるのも背徳感がありますね。うすももは本の内表紙の色かと思いますが、どうなんでしょうね。

忘れるという幸いをこの春の母へ 家族と会えない母へ   鈴木英子『喉元を』
コロナ禍で入院中のお母様と会えない期間が長く、その間にお母様の認知機能が低下して、作者を含めた家族を忘れてしまったようです。会えない寂しさを思えば、家族を忘れたことは救いだと言い聞かせているのでしょう。

正解はなくても誰もが誰かからずれたる光をみずからと言う   鈴木英子『喉元を』
他者と違うことが光であり自己であるという一首ですが、8月9日をハグと日と呼ぶことや児童婚を「仕方がない」とすることへの違和感や、「良きわたし」を黒塗りしたという思いの後に置かれているのがポイントです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?