千葉優作歌集『あるはなく』

静粛な場で叫んだらとか、小動物や赤ちゃんに暴力を振るったらとか、店で商品を盗んだり壊したらとか、やってはいけないことを妄想する「侵入思考」は、実は一般的な現象ですが、多くの作品に、自分が他害し得る存在であること対する恐怖を感じました。
千葉優作さんの『あるはなく』は「相聞」「労働詠」「侵入思考による自分の存在に対する恐怖・罪悪感」が大きな主題としてあり、その結果、主体の人間像が浮かび上がるという印象を受けました。嫌味にならない程度に衒学的なおかげで、生々しくなり過ぎないように思います。好きな歌を紹介します。

自販機が何度もぼくに返すから月かもしれぬ百円硬貨   千葉優作『あるはなく』
何故か自販機が硬貨に反応せず素通りすることがあり、弱っている時だと自分の存在そのものが拒絶されている錯覚を覚えるものです。取るに足りない事ながら言いようのない寂しさが「月」に美しく集約されていると思いました。

ミスコピーされた資料を縦に割き羽化しなかつたなにかを思ふ   千葉優作『あるはなく』
ミスコピーは手で破ったのではなくシュレッターで割いており、鶏が雛を孵す巣を思わせるようにほのかに温かかったのでしょう。「羽化」という言葉が、実際には何も産まれない殺伐とした職場を思わせます。

走馬灯ではおそらくカットされてゐるけふ褒められたことのいくつか   千葉優作『あるはなく』
連作の並びからしてこちらも労働詠。働いていれば怒られることも褒められることもあり、褒められれば嬉しいものですが、よほどでなければ人生の最期に振り返るほどではありません。

やまひだれに春つて漢字はないですかもうこの仕事やめていいですか   千葉優作『あるはなく』
多くの社会人にとって、春は人事異動や組織改変により慣れない環境で膨大な仕事をやらねばならない時期。「やまひだれに春」で「鬱」です。多分、主体はこの仕事を当面辞められないことも想像できますね。

ワイシャツを脱げばわたしがワイシャツのたましひだつたひとひが終はる   千葉優作『あるはなく』
本来「わたし」が主でワイシャツが「従」ですが、職場で自己と現実が乖離する状況であれば、ワイシャツという社会的立場を示す鎧が主ともなり得ます。帰宅してようやくその関係が終わったのでしょう。

かなしみを誰にでも言ふひととゐて手持ち花火の火を分け合へり   千葉優作『あるはなく』
主体は、手持ち花火の火を分け合う時と同じように、至近距離で自分にだけ「悲しみ」を打ち明けて欲しかったのでしょう。自分と相手との思いの深さの違いを端的に示した寂しい相聞だと思いました。

元気かとあなたに問へばほつほつと椿が落ちるやうな沈黙   千葉優作『あるはなく』
連作から考えて、主体と恋人が別れてしばらく経った後と読みました。椿がぽとりと落ちるように、長い沈黙の中でぽつりぽつりと答えている様子から、元恋人は決して元気ではなかったのだと主体は感じています。

軋みつつ明日は来るのだ機械油に汚れし指が起こすプルタブ   千葉優作『あるはなく』   機械油=グリース
労働なのか自分の車やバイクの整備なのかは分かりませんが「汚れし指」に自分の体を動かして生きるために必要な作業をしている実感があります。私の印象だと◎コーヒー、○コーラ、△缶ビール、×緑茶、ジュースです。

ひとつ、またひとつと開きゆく貝につひに開かぬものの混じれり   千葉優作『あるはなく』
鍋でしじみを茹でている場面。茹でられて口を開けない貝は既に死んでいます。いずれにせよ、鍋の中のしじみは、茹で上がった時点では全て死にます。意味ありげな比喩や感情を交えないところに惹かれました。

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